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神風連の乱の検索結果1 - 2 件 / 2件

  • 廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱

    丁髷を切らせたり、帯刀を禁じたのは全国で行われたことなのだが、熊本に於ける特殊な問題として旧藩の時代に有益社という組織があり、藩士の禄高から一定割合を積立てる制度が明治になっても続いていた。ところが廃藩置県の際に、各藩の貸借や財産処分に中央政府が手を付けて、大蔵省がこの積立金を引き継いでしまったのである。この金は熊本士族からすれば、地元に残すか返戻されるべきものとの認識であった。 このことに激怒した士族総代が県庁で県令の安岡と談判したが斥けられてしまい、さらに大蔵省にも談判を試みたが要領を得なかった。この一件から士族たちは、自然と安岡県令に対して反感を抱くようになっていったという。 その上に、安岡は熱心に士風を変えようとし、士族たちの断髪を強引に行おうとし、明治九年三月の廃刀令では、士族たちの「帯刀禁止は自ら国家の滅亡を招く」とする反対論を抑え込んで高圧的な姿勢で臨んだことから、士族たちは

      廃刀令が出た半年後に起きた熊本神風連の乱
    • 神風連の乱の三日後に起きた秋月の乱

      防御のためと嘘をついて士族を集めてみたものの、政府に反旗を翻すことがわかると段々人数が減り、残ったのは百五十人になってしまったという。 今更計画の中止もされず、成敗を考えずに飽く迄も猪突的に進むことに決めた。第一の策としては、まづ福岡県庁を襲撃することにして、旧黒田藩の不平士族と結び、福博の地を根拠に、遠く熊本の敬神党を援けて、その動乱を九州一面に波及させよう、という計画であった。・・・中略・・・ 秋月を立って、これから夫婦石村までやって来て、光明寺に陣を張り、或いは四方に檄を飛ばし、或いは遊説の人を送って、同志の募集に着手したのであった。 同上書 p.741~742 仮名垣魯文 編『西南鎮静録 續編上』挿絵 秋月党の士族たちが挙兵したのは十月二十七日で、夫婦石村に陣を張ったことは福岡県庁にも情報が届いていた。県庁での評議の結果、秋月士族たちに学問を教えた穂波半九郎という学者に、挙兵を中止

        神風連の乱の三日後に起きた秋月の乱
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