丁髷を切らせたり、帯刀を禁じたのは全国で行われたことなのだが、熊本に於ける特殊な問題として旧藩の時代に有益社という組織があり、藩士の禄高から一定割合を積立てる制度が明治になっても続いていた。ところが廃藩置県の際に、各藩の貸借や財産処分に中央政府が手を付けて、大蔵省がこの積立金を引き継いでしまったのである。この金は熊本士族からすれば、地元に残すか返戻されるべきものとの認識であった。 このことに激怒した士族総代が県庁で県令の安岡と談判したが斥けられてしまい、さらに大蔵省にも談判を試みたが要領を得なかった。この一件から士族たちは、自然と安岡県令に対して反感を抱くようになっていったという。 その上に、安岡は熱心に士風を変えようとし、士族たちの断髪を強引に行おうとし、明治九年三月の廃刀令では、士族たちの「帯刀禁止は自ら国家の滅亡を招く」とする反対論を抑え込んで高圧的な姿勢で臨んだことから、士族たちは