「私は白です」乱れる筆致、そして意思疎通はかなわなくなった 無実の訴え届かず死刑確定、袴田さんがつづった数千枚の獄中書簡
水素爆発が相次ぎ福島第1原発事故が危機的状況に陥っていた昨年3月15日未明、菅直人首相(当時)が東京電力本店に乗り込んだ際の「60(歳)になる幹部連中は現地に行って死んだっていいんだ。俺も行く」などとの発言を、東電が詳細に記録していたことが15日、分かった。 菅氏の東電訪問は政府の事故調査・検証委員会の中間報告などでも触れられているが、記録からは、東電が第1原発から全面撤退すると考えた菅氏が、かなり強い口調でできる限りの取り組みと覚悟を迫っていたことがうかがえる。 記録によると、本店2階の緊急時対策本部に入った首相は、政府・東電の事故対策統合本部の設置を宣言。「このままでは日本国滅亡だ」「プラントを放棄した際は、原子炉や使用済み燃料が崩壊して放射能を発する物質が飛び散る。チェルノブイリの2倍3倍にもなり、どういうことになるのか皆さんもよく知っているはず」と強い危機感を示した。 さらに
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「一本の鉛筆があれば/戦争はいやだと私は書く」。1974年8月、猛暑の広島市で開かれた第1回広島平和音楽祭。国民的歌手美空(みそら)ひばりの低く力のある歌声が会場に響き渡った。 初めて披露した「一本の鉛筆」。ひばりの膨大なレパートリーに、この反戦歌があることは意外と知られていない。 歌は静かだが、明るいとすら思えるメロディー。歌詞は切ない。子どもがほしい、あなたを返して―と訴える言葉はやがて、広島に原爆が投下された「8月6日」につながる。 愛する人を奪われた悲しみと、平和への願い。「モデルは特定の誰かというより、当時何万人といたのではないか」。日本コロムビア(現コロムビアミュージックエンタテインメント)の担当ディレクターだった森啓(もり・はじめ)(67)は振り返る。 ひばりは父親が徴兵され、子や家業を守り苦労する母親の背中を見て育った。防空壕(ごう)から燃え上がる横浜も見た。「広島か
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