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都議会でのセクハラ野次がけっこうな規模の炎上になりましたね。 私も憤りを感じた口ではあるんだけど、予想外の広がりに違和感を禁じえませんでした。 問題は問題だけどここまで広がるものなの?という。 怪我をした時に救急車を呼ぶか、自分で病院に行くか、絆創膏貼っとくか、みたいな。 今回の件だったらまあ、絆創膏程度だろう、と思っていたら救急車呼んでいた、と。 時代性、でしょうかねえ。 世の中には理不尽、憤りのネタっていくらでも転がっているのですが、今回のように、みんなの憤りがこうして結実して一定の成果をあげる例と、結実するまでもなく雲散霧消したり、小さな抗議にしかならかったりする例の違いってなんだろう、というのを少し考えてしまいました。 こういう失言でしか政治家の首をとることができないってそれはそれでどうなんだろう、とか思うわけですよ。 別に誰かが死んだわけでもないし、何かを盗んだわけでもないし、職
人間の本質というのは突き詰めるとただの鏡なんで、究極的には責任なんかとれるわけがない。 時代、国籍、性別、容姿、身長、体質、才能、家庭環境、教育環境、運不運といった本人の意思ではどうにもならない要素にがんじがらめに縛られた状態から人生をスタートさせなければならないのに、それらをすっ飛ばして「自己責任」とか「自業自得」とかいう言葉で何かを言った気になるのはただの思考停止にすぎない。 ただ、それでも自己責任という言葉に何かしらの説得力みたいなものがあるのは、我々が自由で機会均等で豊かな先進国の人間だから、という「ファンタジー」がある程度は信じられていること、「ある状況」に陥っている人を救うのに最も有効な手立てはその人自身の自助努力である、というケースが多いからだろう。 Aさんがひどい状況に陥っていても、Aさん自身にまず助かりたいという意思がなければAさんを助けることは困難だ。 Aさんにとって最
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