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幣原喜重郎に関するseuzoのブックマーク (2)

  • 【みんなの知識 ちょっと便利帳】幣原喜重郎元首相が語った、日本国憲法 - 戦争放棄条項等の生まれた事情について - 平野三郎氏記

    1946年・昭和21年()に公布され、1947年・昭和22年()の5月3日から施行された「日国憲法(にほんこくけんぽう)」の誕生に関わり、とりわけ「戦争の放棄」を謳った第九条の成立に大きな役割を果たしたとされる 幣原喜重郎 ( しではらきじゅうろう ) 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872年(明治5年) - 1951年(昭和26年) 1924年(大正13年)の加藤高明内閣で外務大臣に就任し、4度の外務大臣を歴任。第44代の内閣総理大臣(1945年・昭和20年10月9日 - 1946年・昭和21年5月22日)として新憲法の草案作りに関わり、制定時には、吉田茂内閣の国務大臣として憲法公布文に副署している。 秘書官であった平野三郎の著書『平和憲法の水源』によれば、 幣原は ー 「霞ヶ関の主」と呼ばれた外交畑の巨人である。 世にいわれる「幣原外交」は国際協調、恒久平和、共存共栄、対支不干渉

  • 幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について - 平野三郎氏記 - 【みんなの知識 ちょっと便利帳】

    はしがき この資料は、元衆議院議員平野三郎氏が、故幣原喜重郎氏から聴取した、戦争放棄条項等の生まれた事情を記したものを、当調査会事務局において印刷に付したものである。 なお、この資料は、第一部・第二部に分かれているが、第一部・第二部それぞれの性格については、平野氏の付されたまえがきを参照されたい。 昭和三十九年二月 第一部 私が幣原先生から憲法についてのお話を伺ったのは、昭和二十六年二月下旬である。同年三月十日、先生が急逝される旬日ほど前のことであった。場所は世田谷区岡町の幣原邸であり、時間は二時間ぐらいであった。 側近にあった私は、常に謦咳にふれる機会はあったが、まとまったお話を承ったのは当日だけであり、当日は、私が戦争放棄条項や天皇の地位について日頃疑問に思っていた点を中心にお尋ねし、これについて幣原先生にお答え願ったのである。 その内容については、その後間もなくメモを作成したのであ

    seuzo
    seuzo 2015/07/21
    「ほんとうの敵はロシアでも共産主義でもない。このことはやがてロシア人も気づくだろう。彼らの敵もアメリカでもなく資本主義でもないのである。世界の共通の敵は戦争それ自体である」
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