例えば、視線は暴力だ、人は己の視線の無謬性を疑わずそれが紛れもない「政治」であることに気付かない、カメラが眼に似ているのではなく眼がカメラに似ているのだ、といった文句を用いて、視覚が問われる様には。それが一見(視覚)受動的に思えるからか?しかし穴だから受動的である、というのはあまりにも安直だ。鼻の穴なんて明治時代に西洋から輸入された概念で江戸時代以前はなかったんですよ!どうだろう、試しに君の眼球を私の鼻の穴に挿入してみてはもらえないだろうか。聴覚も問われない。あるいは五感という概念そのものにケチでもつけてみるか。私の嗅いだリンゴの臭いとあなたの嗅いだリンゴの臭いは同じだろうか、と言ってみるのではなく、私の嗅いだリンゴの臭いとあなたが聞いたパチンコの音は同じなのかもしれない、とつぶやくのだ。まあそんなわけなので、君の眼球、早速私の耳の穴に挿入してもらおうか。