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エヴァンゲリオンに関するsidetailのブックマーク (11)

  • エヴァンゲリオン殺人事件 - 未来の蛮族

    この度の新しい映画を鑑賞して、今更のように思い知らされたのは、エヴァンゲリオンはほんとうにひどいな、救いようがないな、ということだった。 我が眼を疑うほどダサい戦艦が空を飛び、船員たちが「ヨーソロー!」と唱和する。いつからエヴァワンピースになってしまったのか!? そう呟いてみても、むなしいだけだ。何もかもが狂ってしまった世界で、シンジくんはよく戦った。ベストを尽くした。 だいたい、心臓が停止するほどのビーム攻撃を受け、手のひらから肘までを刺し貫かれ、戦友を殺めさせられ、片腕を切断され、生皮を剥がされて、それでも戦うことのできる中学生なんて、世界中どこを探したっているはずがないのだ。いくらアニメとはいえ、あまりにも苛酷な状況をシンジくんは戦い抜いてしまった、そんな義理は何一つなかったのに……。 誰よりも勇敢だったシンジくんに対して、エヴァ世界の大人たちは何をしたというのだろう? 誰ひとりと

    エヴァンゲリオン殺人事件 - 未来の蛮族
  • すくいぬ 真希波・マリ・イラストリアス 画像

    真希波・マリ・イラストリアス画像の画像ください http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1249175789/ 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52

    sidetail
    sidetail 2009/08/05
    ざっと見たけど真希波って記号的だよな。萌の。
  • YouTube - エヴァンゲリオンOPフルバージョン

    エヴァンゲリオン

  • WEBアニメスタイル_COLUMN

    「春エヴァ」は第25話の途中までとなり、『エヴァ』の完結は同年夏まで持ち越しになった。それが「第25話 Air」と「第26話 まごころを、君に」で構成された『THE END OF EVANGELION』である。僕はそれを「夏エヴァ」とも呼んでいる。 公開日はわずか数ヶ月の違いであり、内容は一部重複しているにも関わらず、「春エヴァ」と「夏エヴァ」では気分が違っていた。すでに熱狂のピークは過ぎていたのだ。少なくとも作品の周辺にいる僕達の気分は変化していた。関連印刷物のデザインコンセプトもその気分に合わせている。極太明朝体の文字を紙面いっぱいにギッチリ詰めたあのパターンは使わず、白地を活かすデザインでなるべくシンプルに。真っ白い紙面の片隅に、黒い文字が1行ある様なクールさを理想とする。特に庵野さんやGAINAXと、デザインの方向性について打ち合わせをしたわけではない。GAINAXが作った「夏エヴ

  • WEBアニメスタイル_COLUMN

    『機動戦士Vガンダム』放映中に「ウッソがあれ程までに求める父親は、尊敬に足る人物なのか。その作品の評価が決まるよ」と庵野さんが云っていた事がある。ただ、随分経ってから、その発言について人に確認したら「え? そんな事を云ったっけ?」と云われてしまった。それは真剣な発言ではなく、思い付くままに口にした言葉だったのかもしれないが、ウッソの父親がどんな人物だったかは、やはり『Vガンダム』を考える上で大事なポイントだった。その結果についてはここでは書くまい。未見の方は、機会があったら確認していただきたい。父親の正体が気になるという点では『新世紀エヴァンゲリオン』も同様だった。あれ程にシンジが求め、プレッシャーを感じ続けた碇ゲンドウとはどんな人物なのか。また、『エヴァ』という作品は男性性というものに対して懐疑的なところがある。男らしさを演じていた少年は去勢され、男の戰いを演じようとした主人公は母親の

  • WEBアニメスタイル_COLUMN

    5月、6月に毎日1話分ずつ『エヴァ』について書いた。『エヴァ』くらい情報が詰め込まれており、解釈する事を楽しめる作品は他にないだろう。全話についてあれだけ書く事があり、まだまだ書く事があるのが何よりの証拠だ。今でも観返すと、新しい発見がある。よくここまで作り込んだものだと思う。『エヴァ』という作品はフェチの固まりでもある。キャラクターの造形も、映像も、台詞も、作品の隅々まで、観る者が引っかかりを感じるように作られている。それも再確認した。 ライターの立場の話になるが、『エヴァ』の原稿はシンクロ率が上がらないと書けない。作品と自分のシンクロ率だ。この「エヴァ雑記」を書いていて、LDの仕事をしていた時のシンクロ率の高まりを思い出した。作品に入れ込み過ぎて、ちょっと頭がおかしくなったくらいの状態で書くのが、多分、ベストなのだ。「エヴァ雑記」を読んでくれた友人に「書かれている内容よりも、書いている

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    これで「エヴァ雑記」は当にお終いだ。前回書いたのは、当時の感想である。今、改めてDVDで「まごころを、君に」を観ても、流石に自分が人類補完計画に取り込まれたとは思わない。むしろ、試写を観てそう思った自分は、そんな事を考えるくらい『エヴァ』に入れ込んでいたのだ。あの時は、作っている人達も、その周辺にいる僕らも、ちょっとばかり常軌を逸していた。 僕も『エヴァ』を観て、『エヴァ』で仕事をする事で自分を補完しようとしていた。前にも書いたように、ありとあらゆる娯楽が心の欠落を埋めるものであるのかもしれない。だが、その中でも特に『エヴァ』は補完に向いた作品だった。『エヴァ』という作品を語る場合に「補完」という言葉は避けて通れないものであると思う。 「第26話 まごころを、君に」のラストで、シンジは補完された世界を望まず、現実に帰ってきた。ヒトは補完が必要な、欠落した存在であるかもしれないが、作り手も

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    第参話の戦闘の事でミサトと対立したシンジは、それをきっかけにしてミサトのマンションを出てしまう。だが、彼はどこか遠くに行くわけでもなく、第3新東京市の周囲を歩き回る。まるでミサトに迎えてもらうのを待つように。「第四話 雨、逃げ出した後」は、「第参話 鳴らない、電話」の後日談であり、TVシリーズで唯一、庵野監督が脚の役職でクレジットされていないエピソードだ。元々第参話は、シリーズ構成では「初めての、TEL」というタイトルで、戦いの後でトウジとケンスケから電話がかかってくる話だった。「EVA友の会」に掲載された薩川昭夫の取材記事に依れば、当初の脚ではトウジとケンスケがエントリープラグに入り、そして、戦闘終了。シンジ、トウジとケンスケがそれぞれ別の部屋で怒られて、廊下に出たところで顔を合わせて笑い出す。つまり、第参話の段階でシンジはトウジとケンスケと友情を結ぶはずだった。ところが絵コンテを進

  • WEBアニメスタイル_COLUMN アニメ様の七転八倒 第36回 エヴァ雑記「第参話 鳴らない、電話」

    第弐話に付いた第参話の予告も手厳しい。「新たな生活を、状況に流されるまま送るシンジに、友人が生まれるはずもなかった。だが、EVAのパイロットである事実は、彼を人気者にする。次回、鳴らない、電話。この次もサービスしちゃうわよ」。実際には、状況に流されていても友達ができる事はあるだろうが、敢えて「友人が生まれるはずもなかった」と云いきってしまうあたりが『エヴァ』の『エヴァ』たる由縁だ。 「第参話 鳴らない、電話」からシンジは新しい学校に通い始める。ここで鈴原トウジ、相田ケンスケ、委員長こと洞木ヒカリが初登場。普通の学園生活の描写があるためか、トウジとケンスケのキャラクター性ゆえか、第参話はどこか穏やかな空気が流れるエピソードだ。第壱話と第弐話の熱さに対して、平熱感覚が心地よい。第壱話と第弐話で戦闘が夜に行われたのに対して、第参話では青天の下で使徒と闘っている。それも第参話の爽やかな印象に寄与し

  • WEBアニメスタイル_COLUMN アニメ様の七転八倒 第35回 エヴァ雑記「第弐話 見知らぬ、天井」

    第壱話と第弐話は、2で1セットの構成である。第壱話は初号機の出撃で終わっているが、第弐話はその直接的な続きではない。最初に少し初号機と第3使徒の戦闘シーンがあるものの、それはシンジの夢であり、第弐話冒頭の時点ですでに初号機は第3使徒を倒している。その戦闘はBパートで回想として見せるトリッキーな構成となっているのだ。後述するマニアックな構図や、人間描写等も含めて、エキセントリックな印象の強いエピソードである。 スタッフを見ると、第壱話と第弐話はGAINAXの総力戦である。第壱話も第弐話も絵コンテは庵野秀明監督、摩砂雪副監督の2人、演出は鶴巻和哉副監督。作画監督は第壱話が鈴木俊二、第弐話が田雄だ。鈴木俊二が貞義行のキャラクターデザインに忠実に描こうとするのに対して、田雄はアニメ的に洗練された描線で画面をまとめる。方向性こそ違えど、いずれも『エヴァ』作画のスタンダードだ。戦闘シーンの原画

  • WEBアニメスタイル_COLUMN - 第34回 エヴァ雑記「第壱話 使徒、襲来」

    『新世紀エヴァンゲリオン』については、放映開始前からのお付き合いだ。GAINAXで『逆シャア』の同人誌を作りながら庵野秀明監督が作業をするのを脇に見て、へえ、次はロボットものをやるんだ、なんて思っていた。庵野さん自身も覚えていないだろうけど、制作準備中に「小黒君、脚を書きたいなら書かせてあげるよ」と云ってもらったのだが、勿体ない事に「お手伝いはしてもいいですけれど、脚はちょっと……」とお断りしてしまった。庵野さんの作品に対する気っぷりは知っていたので、自分ではついていけないだろうと判断したのだ。事実、放映が始まり、作品のテンションがビンビンに上がっていくのを観て、ああ、脚を断ってよかったと何度も思った。脚は書かなかったけれど、結局『エヴァ』には深く関わる事になる。 最初の数話は、アフレコを見学に行った。資料に依れば「第壱話 使徒、襲来」のアフレコが行われたのが1995年3月27日

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