筆者が大島康徳という選手を初めて意識したのは1974年10月14日、後楽園球場の巨人-中日戦、つまり長嶋茂雄の「引退試合」のときだった。 高校から帰ってテレビをつけると、時折ハンカチで顔を抑えた長嶋が観客に手を振り、球場を一周するところだった。「ミスターG栄光の背番号3」と大きく映ったバックスクリーンの両軍メンバー表には巨人の「4番三塁長嶋」に対峙する形で中日「4番三塁大島」になっていた。 この年、巨人のV10を阻止した中日の主力は、高木守道、谷沢健一、木俣達彦、ジーン・マーチンらであって、大島は脇役という印象だった。大島は長嶋茂雄に白いユリの花束を渡したが「なぜ」と思った。 実は2日前にリーグ優勝した中日の主力陣は、名古屋での優勝パレードに出るため試合を欠席し、長嶋の引退試合には、大島など若手選手が出場したのだ。大島はすでに規定打席に到達したこともある選手だったが、中日でのステイタスはそ