上小阿仁村国保診療所に新たに内科医が常勤し、8月19日から診療を始める。同村では、村の求めで昨秋から所長を務めた外科医が4月末、北秋田市内の施設に移り退職。現在は週に5日、村外から泌尿器科と内科の計3人の医師が通いで診療している。 村によると、新たに常勤医になるのは東京都八王子市の柳一雄医師(74)。青森県出身で弘前大学医学部を卒業後、同県内の病院などで勤務した。1968〜71年には同村の診療所の前身にあたる施設にも務めた経験があるという。 村は5月、知人を介して柳さんに所長就任を打診。6月になって「村には知っている人もいる。頑張りたい」と了承を得たという。 村は2007年から医師を公募。これまでに4人が応じたが、いずれも健康上の理由などで辞めている。加賀谷敏明副村長は「医師がしょっちゅう代わるのは患者にとってもよくない。常勤医がいることで、村民にも安心感を与えられると思う」と述べた
戦前にも援助交際があったとは驚く。 ●「カフェの女給」とは何だったのか? 永井荷風の「つゆのあとさき」「谷崎潤一郎の「痴人の愛」など多くの昭和初期の文芸作品にカフェーの女給が登場し、太宰治の最初の心中相手はカフェの女給だった。 太宰治は生涯で3度の心中事件を起こしており、最初の相手は田部シメ子というカフェの女給をしていた人妻だった。昭和5年、ふたりは鎌倉の海に身を投げ、シメ子は溺死し、太宰だけが助かった。 カフェと聞くと、現代人は喫茶店をイメージするだろう。そしてカフェの女給といえば、店で働くウェイトレスを想像するにちがいない。ところが、戦前のカフェは喫茶店というよりは、むしろスナックや風俗店に近い存在だった。日本にはじめてカフェが登場したのは、明治時代のことである。 明治44年、銀座に本格的なコーヒーを飲ませる店「ライオン」が誕生し、大正元年には築地にも「タイガー」という店が生まれた。
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