personと*これはすごいに関するsinamon_nekoのブックマーク (7)

  • 40歳「廃道」に鉱脈を見出した男の快活な人生

    これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第30回。 <藪を突き抜けた勢いで、うっかりあと1歩踏み出していたら終わりだった。(略)なぜなら、右に見える路面には、それを支える地面がまるで存在しなかったから。宙ぶらりんなのだ。足を踏み込んだら突然板チョコのようにポッキリ割れて、あと100m残っている海岸までの落差を身に刻みつけながら、とても呆気なく人生の締め括りを迎えていたかも知れないのだ。……こういうことがあるから廃道は恐い。(東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道レポートより)> 使われなくなった道を踏破するオブローダー 使われなくなった道のことを廃道(

    40歳「廃道」に鉱脈を見出した男の快活な人生
    sinamon_neko
    sinamon_neko 2024/07/07
    『山さ行がねが』の人。
  • 恩師とのお別れ

    昨年末、チャンピオンソフト(アリスソフト)の創業者である白木善喜氏がこの世を去りましたご冥福をお祈りいたします。 白木善喜氏の経歴 43歳の時にチャンピオンソフトを設立 当時、一部上場の大手企業で将来を約束されていた身だったのだが パソコンゲームの将来性にかけて企業 64歳、社長を引退する とんでもない苦労を重ねて会社を起動に乗せた後 当時の若者(私たち)に裁量と権限を譲り渡し身を引かれる 84歳、死去 引退後は個人の資産範囲で支援事業とかされていました そして周囲に迷惑かける事なく静かに逝かれました 人生、どこかで大きなチャレンジが必要ですが多くの人は失う事が恐ろしくて尻込みします 白木さんは、そのチャレンジ(起業)をされて見事成し遂げ、さらに引き際も完璧という素晴らしい生涯だったと思います 私にとっては恩師と呼べる方でした白木さんに出会い、導いてもらって今の私があります 叱ってもらった

    恩師とのお別れ
  • 昭和からの贈りもの

    およそ八十年前の東京・上野桜木に、現在のデジカメ感覚で写真を撮り続けた少年がいた。 少年が手にしたカメラは、小さな家が買える程の高価なカメラだった。 カメラが貴重だった時代に、家族や街並み、海水浴や学校など、少年は思いのままに撮り続けた。 プロカメラマンとしての目線ではなく、少年の目線での普段着の目線で・・・ 忘れ去られつつある普段着の昭和初期が今蘇える。

  • 横井庄一さんのくらしの道具|名古屋市博物館

    昭和47年(1972)1月24日、グアム島の南部タロフォフォのジャングルで、1人の残留日兵が発見されました。この人はタロフォフォ村事務所に保護された後、グアム島警察に移送され、そこで事情聴取されました。そして、愛知県出身の横井庄一さんと判明しました。 横井庄一さんは大正4年(1915)3月31日、愛知県海部郡佐織村(現愛西市)に生まれました。昭和5年(1930)から豊橋市の洋服店に洋服仕立て職人として勤務したあと、昭和11年(1936)から名古屋市の実家で洋服仕立業を営んでいました。昭和13年(1938)5月に最初の召集で日中戦争に従軍し、昭和14年3月に召集解除となり帰国しました。ふたたび名古屋で洋服仕立業を営んでいましたが、昭和16年8月に2度目の召集を受け、満州へ派遣されました。 そして、太平洋戦争開戦以来日軍が占領していたグアム島防備のため、昭和19年(1941)3月、横井さん

    横井庄一さんのくらしの道具|名古屋市博物館
  • 白鳥由栄 - Wikipedia

    青森県出身。幼少期に父が病死。3人姉弟の2番目だったが、母は乳吞児の末弟とともに再婚。白鳥は姉とともに叔母(父の妹)の家(豆腐屋)の養子となる。徐々に素行が悪化、遂に1933年(昭和8年)に仲間と強盗殺人を犯し投獄される。 青森刑務所では劣悪な刑務所の待遇に抗議するも、逆に懲罰房に入れられる。 1936年(昭和11年) 手桶のタガで手製の合鍵を作り、開錠して脱獄(1回目の脱獄。白鳥28歳)。だが、翌日自首。いじめられた看守への復讐が動機だったが罪状に「逃走の罪」が加わり、無期懲役となる。1937年(昭和12年)4月、白鳥は宮城刑務所を経て小菅刑務所(現:東京拘置所)に移監される。小菅刑務所では普通の受刑者としての扱いを受けていた。 1941年(昭和16年)10月、戦時罪因移送令に基づき秋田刑務所に移監される。脱獄の経験があるため特別房入りの待遇であったが、高さ3メートルの牢屋に天窓があるだ

    白鳥由栄 - Wikipedia
  • レンガを焼くことから始めたセルフビルドの廃墟の喫茶店「大菩薩峠」

    徳島市から高知県室戸岬へと続く国道55号線を車で走っていると、色々な景色が見れるので天気の良い日のドライブには最適な道路(故にアメリカのRoute66とかけてRoute55と呼ばれていたりする)なのですが、徳島県阿南市に差し掛かると非常に不思議な建物を見かけることが出来ます。 セルフビルドによる喫茶店「大菩薩峠」 ボクはもともと愛知県出身で、徳島県に移住してからまだ日が浅い。だから詳しく知らないのですが、どうやらここは地元では非常に有名な喫茶店で「大菩薩峠」というらしい… いや…徳島のみならず、もしかしたら四国中で有名なのかもしれない…だからこの四国大陸読者からしたら、「そんな有名なとこ知ってて当たり前よ!」と鼻で笑われてしまうかもしれないが、ここはボクの興味を優先させていただこうと思います。 この廃墟のような、もしくは言い過ぎかもしれませんがガウディ建築のような建物。なんでもここのオーナ

    レンガを焼くことから始めたセルフビルドの廃墟の喫茶店「大菩薩峠」
  • ジョニー・アップルシード - Wikipedia

    Image from Howe's Historical Collection ジョニー・アップルシード(Johnny Appleseed、1774年9月26日 - 1845年3月18日。名: ジョン・チャップマン〈John Chapman〉)は、アメリカ合衆国初期の開拓者の1人であり、実在した人物である。西部開拓期の伝説的人物の1人として、現在もさまざまな逸話や伝説で語り継がれている。 マサチューセッツ州レミンスターに生まれた彼は、成人するとリンゴの種を携えて西部の開拓地一帯(当時の西部なので、現在のアメリカ東部から中西部に当たる)を回り、エマヌエル・スヴェーデンボリの著書を手に新エルサレム教会の教えを説きながら、オハイオ州、インディアナ州にリンゴの種を植えて回ったという[1]。 ヘンリー・ハウ(英語版)の著作物には、以下のようなエピソードが記されている。 コーヒー豆用の麻袋を外套とし

    ジョニー・アップルシード - Wikipedia
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