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ぎに関するskasjhgeuのブックマーク (2)

  • 玉音放送後も続いた戦争 陸軍兵器学校の記憶 | さがみはら中央区 | タウンニュース

    「艦載機が落としていったんだ」と7cmほどの撃ち殻薬きょうを見せてくれたのは、東淵野辺在住の河敏さん(88)。高座郡大野村淵野辺(現在の東淵野辺)の農家に生まれ、光明学園卒業後の昭和18年に18歳で陸軍に徴用。現在の大野北にあった陸軍兵器学校の印刷工として、終戦までの約2年間を過ごした。 そこでの任務は、兵器学校の生徒が学ぶための教の印刷。大砲・戦車・鉄砲に関することなど、様々な教材を製した。「戦争の真っ只中でしたし、緊張感がありました」と当時を振り返る。印刷工程のほとんどが手作業の重労働だった時代。朝8時から夕方5時まで黙々と汗を流した。 ときには勤務中に空襲となり、慌てて防空壕へ避難したことも。撃ち殻薬きょうは兵器学校の敷地で拾ったものだ。 戦火が激しさを増すなかでも「日が勝つと信じていた」と河さん。8月15日の玉音放送は、他の工員と共に、兵器学校内の印刷所の前に集められ聞い

    玉音放送後も続いた戦争 陸軍兵器学校の記憶 | さがみはら中央区 | タウンニュース
  • 玉音放送「まさかの反面、ほっとした」 田中登さん(87)=山王下在住= | 多摩 | タウンニュース

    大東亜戦争が始まった当時、田中さんは多摩村立尋常高等学校校(現市役所の場所)に通う高等課1年生だった。当時、多摩村には校の他に、第一分校(豊ヶ丘)、第二分校(和田)の3校があり、4年生になると全員が校に通い、男女別のクラスでそれぞれが50人ほどいたという。 1941年(昭和16年)12月8日。「朝、友達と一緒に登校するときに万歳したんだよ」。真珠湾攻撃が成功した話を聞いたからだ。「今思うとおかしいけど洗脳されていたんだよね」。その後、戦争が拡大していくと、学校で少年団を組織し、田中さんは第2中隊第2小隊長になり、分列行進を繰り返していたという。 1943年(昭和18年)、田中さんは青年学校に進級。戦局が悪化し始め、学校にも影響がでていた。先生が教室からいなくなり、授業も明治時代の教育勅語を書き写す形になったという。沖縄戦が始まると、米軍の爆撃機B29の姿を毎日見かけるように。日野にあ

    玉音放送「まさかの反面、ほっとした」 田中登さん(87)=山王下在住= | 多摩 | タウンニュース
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