肝心なことを書き忘れていた。
いまどき、ほとんど家庭は核家族だ。片親の家庭も少なくない。 親から子へ、子から親へ*1述べられる「今日から私とあなたは他人だ」は、一方が他方を共同体(家庭)から放逐するというより、共同体そのものを解体しようという宣言だろう。両者の不利益は、解体のその瞬間にかぎれば同質でも同量でもないだろうが、長い目で見るほど同等と私には見える。 親と子はいつまでも非対称な存在ではない。*2 私の養育者は、私の養育において不足も過りも無かったにも関わらず、私に「私とあなたは他人だ。あなたは私に何も期待するな」と示された。理由も尋ねずに、黙ってそれを受け容れている。老後と死後はどうするつもりか訊いたら、私をアテにしていないと言った。*3 私は借りばかり増えて返す気さえ全く無いが、子だからか、その借りをちっとも重く感じない。 世間一般には、これを親不孝と評する。 新興宗教の家庭に生まれると、世間の評はころっとひ
「子は親を選べない」と言うが、親も子を選べない。 選べない者同士でも、革めて他人に為ることはできる。 どちらかがそう望むならそう為るが善い、と思う。 親が子に向かって「今日から私とあなたは他人だ。あなたは私に何も期待するな」と決別することがあっていい。私自身が、親に向かって為したことなので。 親が子に向かって望むなら、言う時期の問題はある。 子が物心両面で自立すれば、かまわないだろう。自立していなくとも、自立するに足る能力をすでに備えたと第三者から認定されるところまできたなら、よいのではないかと思う。 子が親に向かって望むにも、言う時期の問題はある。 私が離脱したのは養育者が還暦を迎えるずっと前だ。まだ老いと死は迫っていなかった。
今年は、年賀状のやりとりだけ続けていた中嶋先生と、いよいよ会えるかもしれない。 あたりまえとされている道をあたりまえのふりをして歩きつづけることは、あたりまえの心ではとてもしんどいことだ。と、速くも気づいてしまった子の、先達として、再び。そうして、そのような子を持つ親の大先輩として、新たに。 数年前の年賀状で、先生は「鳥を待つ」と詠っておられた。 今日いただいた詩には……暑い夏、濁り切った池の底の魚がひとときの夕立ちに歓喜するけれど、その後の日照り空に「雨は降らず 世界は枯れていく」と、ある。 思い違いかもしれないけれど、私はいま、先生の詩が、わかるように思うのです。 ゆたかであるということは、この私に、いつでも十分な実りと平安が約束されている、ということではなかった。努力すればそれが手に入れられる、と約束されるものでもなかった。約束など何も無かったのだった。 まだ見ない鳥を待つ。池の底で
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