読むとは声を出すことだ。分かるとは声を自分の体で震わせることだ。分かるは声を分けることなのである。言葉や文字から声を抜いてはいけない。多くの言語学者や書家たちは声を忘れすぎている。空海はこれを一言で「声字」と言ってのけた。 日本の文字。日本のボーカリゼーション。すべては高野山や比叡山で考え抜かれたことだった。ということは、日本語という独自のシステムを構成していった功績のかなりの部分に、真言僧や天台僧がかかわっていたということになる。日本語という秘密のまことに重大な胎盤が密教僧によって充血していったということになる。 ぼくには日本のことや日本語を考えるときに、いったん契沖に戻ってみることがしばしばある。そこに分水嶺があるからだ。とくに契沖が浄厳と深く交流していたことが気になっていた。 この交流は、歌学者であって国学者の嚆矢でもあった契沖がそもそも仏教学者であって、しかも高野山に10年にわたっ