「龍樹・親鸞ノート」を読んで「そうなんだなぁ」と思ったことがあるので書いておきます。昔の仏教の本を読むと書いてあることが多いのですが「相待や絶待」という字をよく使われています。その理由を特に考えてきませんでしたが、そうかもなぁと思ったので、以下に引用しておきます。 龍樹が用いる特別な術語に、(パラスパラ・)アペークシャー(apeksa)というのがありますが、それは「相関」−他のものと相い関係し合う、また「相依」−相い依り合う、それから「相待」とも訳されます。 この「相待」という語は、「相対」という語とよく誤解されますが、両者が根本的に異なる点は、「相待」は他のものを待っているのです。たとえば、私は執筆者という名目でいま文章を綴っていますが、実は読者を待っているのです。読者がいなければ、私は執筆者でもなんでもない、一介の、かなり年老いた、たんなる男にすぎないのですけれども、読者が読んでくださ
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