この物語の主体は〈救済されえない男たち〉の方ではないか 博物誌 12月27日付け記事より http://d.hatena.ne.jp/genesis/20051227/p1 主体という言葉に若干の語弊はあったとしても、私はこれに同意します。可哀想ですが少女たちの人生は既に終わってしまっていて(第六巻・アレッサンドロ「彼女の魂はどこへいくんでしょうね」)、残ったのはもっと可哀想な、むくわれないおやじ共の人生の落としどころ探し、という雰囲気であります。ことにジャン・ジョゼ兄弟のそれへの焦点が徐々に合わせられつつあって、救われ無さはいよいよ加速する気配が濃厚。 しかし、共通するものが”自らの結末探し”だとして、問題の「おやじ共」にとっての「彼女たち」の意味とは何なのでしょう。なぜなら彼女たちは落としどころを探すおやじ共の拠り所ではありますが、単純にそれだけのものではないように見えます。ある者は恋