過去から現代、未来までを現代風デザインのマップで。
徳川家康が本能寺の変の知らせを聞いて大阪から愛知県の岡崎城まで3日で帰ったという「伊賀越え」を徒歩で再現する旅に出ています。1日目は大阪府四條畷市の四條畷神社から京都府宇治田原町の山口城(別名:宇治田原城)まで移動したので、その過程をまとめてみました。 ◆1日目の予定ルート 1日目は四條畷神社を出発し、家康が通ったと伝わる「尊延寺道標」と「草内の渡し場跡」を経由して、家康が宿泊した「山口城(別名:宇治田原城)」まで行きます。 ◆スタート地点の四條畷神社へ移動 家康は本能寺の変が発生した際に堺周辺を観光しており、四條畷神社に訪れていた際に信長の死を知ったとされています。そこで、今回の旅は四條畷神社をスタート地点に設定しています。四條畷神社の所在地は以下。今回は電車で四條畷駅まで行き、そこから徒歩で四條畷神社まで移動しました。 駅から四條畷神社本殿に向かう途中の鳥居。 この階段を上れば、すぐに
織田信長が本能寺の変で最期を迎えた際、徳川家康は堺(大阪府堺市)周辺を遊覧中でした。その後、信長の死を知った家康は少数の手勢と共に伊賀(三重県伊賀市)を越えて岡崎城(愛知県岡崎市)まで非常に短い日程で帰り着いたと伝わっています。この出来事は「伊賀越え」や「神君伊賀越え」として語り継がれているのですが、その日程や道程は諸説あり、最も広く伝わっている説では「2泊3日で岡崎城にたどり着いた」とされています。本当に車や自転車のない時代に2泊3日での伊賀越えが可能だったのか非常に気になったので、実際に徒歩で伊賀越えを再現できるのか挑戦してみることにしました。 神君伊賀越えとは?家康は最大の危機をどのルートで逃げ切った|戦国武将にまつわるコラム https://busho.fun/column/igagoe ◆伊賀越えのルートを決める 大阪から愛知にかけて「家康が伊賀越えので立ち寄った場所」とされる地
瀬戸内海の文化圏は、瀬戸内海を「隔てるもの」でなく「繋ぐもの」として巨大な幹線の如く捉えている気がする 。 知らんけど _(:3 」∠ )_
100年間、保管されてきた地図 1923年9月1日に発生した関東大震災。100年がたちましたが、国がずっと保管してきた「古地図」があります。 「震災地応急測図原図」です。 この地図、単なる地図ではありません。 よく見ると、細かく手書きの文字があります。 被災の状況が克明に記されていました。 保管していたのは日本の地図を作成し続けている国土地理院。取材したところ、未曽有の出来事だった関東大震災の被害を何とか把握しようと、当時の参謀本部陸地測量部が作成したものだということでした。 地震発生後の9月6日から15日まで、のべ94人の調査員を被災地に派遣。鉄道や車が使えず、東京駅から立川駅まで38キロもの道のりを、ひたすら徒歩で調査する人もいたといいます。 彼らが被害状況を書き留めたこの古地図、東京・神奈川・千葉を中心に63枚残されています。国土地理院は100年間、これらを大事に保管し続けてきたので
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