グローバル経済の下部構造と化したエジプト 「エジプトはナイルのたまもの」 とは古代エジプト世界の豊かさを称した言葉ですが、あまり豊かすぎるのも考えものかもしれません。 エジプトは16世紀初頭から19世紀初頭までオスマン帝国に組み入れられ、「辺境」の豊かな生産地としてオスマン帝国各地へ農作物などを供給しました。 しかし伝統的な農村社会と労働様式を有したまま近代を迎えたエジプトは、ムハンマド・アリー朝とその後のイギリスによって、グローバル資本の下部構造に組み込まれ、出口の見えないモノカルチャー地獄に突入。 畑いっぱいに実る綿花は、ヨーロッパ資本による独裁とエジプト農民の塗炭の苦しみを象徴するものとなりました。 今回はなぜ豊かなエジプトが、ブラック社会に転落していったのか、その過程を追っていきたいと思います。 1. イギリス綿工業の世界展開 インド綿を駆逐するイギリス綿 18世紀以前、世界最高の
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