NHK連続テレビ小説『ちりとてちん』の第37話(11月12日放送分)で、居酒屋「寝床」の店主・熊五郎(木村祐一)によって行われた「リサイタル」、観ましたか。 熊五郎が自分の歌を披露する「リサイタル」を企画したところ、常連客はみんなアレコレ理由をつけては欠席しようとする。 そこで、「わかった、よう〜わかった! 町のもんみな、俺のフォークを聴くのが嫌やと、こない言うとんのやな。あ〜情けない! この町にはフォークを理解する心を持った人間はおらんのかい!?」と怒った熊五郎は、すべてのメニューの値上げを発表(昼の定食がなんと2万8千円!)。仕方なしに集まった客の前で、妻への愛を捧げる歌を情感たっぷりに歌い上げ、客たちはみんな耳栓をしつつ、悶え苦しむ……という話だ。 これを観て&聞いて、どうしても思い出してしまうもの、ありませんか。 そう、そのまんま『ドラえもん』における最も危険きわまりないイベント、
かつては文学部の看板学科だった仏文科の廃止が続いている。 神戸海星女子大に続いて、甲南女子大も仏文科がなくなる。 東大の仏文も定員割れが常態化している。 理由はいくつかある。 英語が「国際公用語」の覇権闘争に勝利して、事実上のリンガ・フランカになったこと。 フランス自体の文化的発信力が衰えたこと。 文学についての知識や趣味の良さを文化資本にカウントする習慣が廃れたこと。 語学教育がオーラル中心にシフトしたこと。 などが挙げられる。 理由のうち最初の二つはグローバルな事情があってのことであるから、私どもが個人的にどうこうできることではない。 残る二つは本邦の事情である。 外国語教育をオーラル中心にすることの害については、これまで何度も書いてきたので、ここには繰り返さない。 本日は、文学についての教養が文化資本としての価値を失った経緯について考えたい。 教養が文化資本としての価値を失うとはどう
「教養」について、自分はあまり関心がない。いや、「教養」についての話題に自分がいつも頓珍漢な思いがする。ある意味、私にとって教養は非常に明確である。ちょっとメモがてらに書いてみたい。 まず、ヘンテコな結論から先に書く。これは誰か言っているのかどうか知らないが、どんな教養であれ、その基礎がなければなんの意味ないということ。教養の基礎とはなにか。人格か? 正義か? 美的センスか? 私はまるで違うと思う。私は単に独断なのか、私の教養の実は成果なのか、こう思う。教養の基礎とは「人の知性を快活にさせること」だ。そして、その「人」というのは、すべての層の人を含む。 私は教育について、奇妙な理想を持っている。学力なんかどうでもいい。まず大道芸を一つ身につけろと。まったく異文化の町に一人放りださせたとき、誰かの気を引かせ、その人と快活な関係が持てるようにせよ。難しく言えば、「おまえはユニバーサルな人間であ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く