宮古島はかつて琉球王国の植民地であった。慶世村恒任の『宮古史伝』第四編第七章に落書(らくしょ)事件の記述がある。1860(万延元)年、波平島尻輿人なる人の宮古島の窮状を訴える文書が発覚して琉球王朝に処罰された事件である ▼文書は三カ条からなる大方次のような内容である。一、琉球は小国にして大国の狭間にあって政治が思うようにならず財政は窮乏し、下々のものは貢納に追われて休む間もない。一、宮古島は古くは独自の政治を行ってきたが、琉球王国の属領になってしまった。しかし、宮古島の住民は大和を親国と思っている。一、かなうことならこの思いが大和の高官に届き、悪政に困窮し疲れはてた島民を救ってくだされば喜んで大和に服すものです ▼琉球王府はこの文書を反逆と断定して波平を捕縛し共謀者4人とともに裁き波平は死罪、ほかの4人は流罪となったが、波平の場合はその妻子まで流罪になっている ▼当時、日本も琉球も政治状況
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