優秀な者は「進歩することは終わりに近づくことだ」という真言が表す終末への旅程を無自覚に加速するという重大な副作用を常に孕んでいる。そして優秀でない者はこの旅程を減速し人類をより長く永らえさせるという重大な使命を帯びている【言いくるめるとはおれカネゴン】。
稲作:ボタン一つで耕作から田植え、収穫まで全自動。 前にも書いたけど、人工知能とロボットの進歩を測定するのに最もふさわしいのは「ゴミの分別」テストだと思う。いたいけなロボットたちが、各家庭のゴミや産業廃棄物を(特殊なプログラミングなしに)どれほどの割合で正確に分別できるかを毎年定期的に測定してほしい。 そして遠い未来に彼らロボットたちが、人間よりはるかに正確に、捨てていいゴミと捨ててはならないものをビシビシ分別できるようになったとき、人類は安心して後を彼らに任せて永遠の安らぎに就いてもよいとも思う【任せられないおれカネゴン】。ゴミ分別をこなすことができれば、農業も間違いなくこなせる。
何でもあるのにどうして幸せになれないか。 これまでカネゴンがいろんな漫画で調べたところによると、「最初から身の回りにあるものは、それが何であろうとありがたく思えない」「自分の力で手に入れたものは、他人にとってそれがどんなに下らなくても貴重なものに思える」という強力な原則がカネゴンたちの前に立ちはだかっているらしい【回れ右するおれカネゴン】。 そのうち資源の最適配分と人類文明の長期続行を目的として、社会がこんなふうに改造されたりしたらどうしよう。 何もかもピカピカに揃っている近代的かつせわしない都市の周りを、それよりもう少し時代遅れで少しのんびりした地域が円状に囲み、その外側をさらに時代遅れかつのんびりした地域が円状に...最終的には田園風景がという具合に都市を構成する。 子供が生まれたら、家族もろとも有無を言わさず同心円の一番外に居留してもらう。 子供の成長や学業が特定のステージに達するた
「エコロジストのための経済学」を購入。その帯より引用: 「環境保護が善で、産業が悪」といった善悪対立的な二元論は、問題の本質を失うので要注意である。環境問題では、問題が複層構造をなしていて、加害者と被害者が一致しており、その間をつないでいるのが経済システムである。だとすると「善=悪」となってしまっているではないか。(第1章より) カネゴンこれだけでイッてしまいそう【接して漏らすおれカネゴン】。読む前から傑作であることが約束されていると信じる【読まずに書けるおれカネゴン】。 振り返ってみればカネゴンが心の底から好きなものは、たとえば「デビルマン」のように、善悪を(言い逃れしようにもできない、ものすごくいやらしいポイントで)逆転させる話であり、言い換えればマジョリティを一気にどん底に突き落とす話だったりする【一発逆転おれカネゴン】。そして今度はカネゴンがマジョリティになれば世界は平和なのだけど
と言いつつ「スポーツ解体新書」という本を先に読んでしまい、驚嘆する【二枚の舌のおれカネゴン】。スポーツについて語る人は死ぬほどいるけれど、これほどまともな議論を見たのはカネゴン初めてなのは、カネゴンがスポーツ新聞を自分からは買わない人だからなのかもしれない。 「アマチュアリズム」(お金のために動かないアマチュアは尊く、プロは卑しい)という考え方は、かつてイギリスなどで、エリート層が肉体労働者をスポーツから排除して自分たちが勝てるようにするという差別的な発想から生まれたことをカネゴン初めて知る【知るも知らぬもおれカネゴン】。 その他にも、カネゴンたちのスポーツ観がいかに狭い国内のおかしな常識に囚われているかを、(左翼的でヒステリックな口調に毒されていない)落ち着きのある文体で、スポーツ界の進む道を前向きに描きながら滔々と指摘している。恥ずかしくて新聞社やTV局などが書けない、メディアとスポー
結城さんも感嘆すなる最上先生の稲妻直感。 取ってつけたようで恐縮だけど【ポロリ落ちるはおれカネゴン】、カネゴンも(現代と違う)他の時代に生まれていたら、きっと今と同じようにものを考えられないだろうと思う。たとえ現代でも、電車に乗るたびに、たとえカネゴンの前に座るオバサンとかを見て、カネゴンの見た目がもし突然こんなになったら、今と同じようにものを考えることは決してできないだろうとつい考えてしまう【薄ら無礼なおれカネゴン】。
東京証券取引所が財務会計情報をXMLで公開へ。 来年当たりに、給与明細をRSSで片っ端からフィードすることが国民の義務になるかもしれないと夢想【日本を壊すおれカネゴン】。 これが実現したら、以前に書いた「既得権益をこそげ落とす方法」よりもずっと効果的に資本主義の最大の欠点が解消されるかもしれない。すべての給与所得者の明細がネット上で透け透けになることで、たくさんもらっている人にはいわれのない嫉妬が怒涛のように集まり、実力に釣り合わない多大な収入を得ている人々はその居心地の悪さに耐え切れずに給料を下げてくださいと続々と泣いて頼むようになる予感。皆が嫉妬心を存分に発揮すれば発揮するほど健全に機能するのでこのシステムは事実上メンテナンスフリーになるし。それが嫌さに日本国民が一人残らずフリーランスまたはスナフキンのような住所不定の風来坊になってしまう可能性もなきにしもあらずだけど、そのときはそのと
昨日の続き。 とするとカネゴンたちは、子供たちを逞しくするために最初から醜い現実の真っ只中に放り込まないといけないのだろうか。一見矛盾するようではあるのだけど、色川武大は「うらおもて人生録 (新潮文庫)」でこれとはまったく逆のことを主張している。例によって記憶からなので相当変形しています: 両親が年老いてから生まれたこともあり、私は幼少期から、傍から見ると常軌を逸しているぐらい溺愛されて育てられました。当時はそのことが疎ましくて仕方なかったのですが、長じて博打の世界に身を投じたとき、今から思えばそうやって溺愛されていたこと、過剰なぐらいに愛情を受けた経験があったからこそ、私はあの世界で生き残ることができたのではないかと思います。 鉄火場には、化け物のように強い男たちがうようよいました。しかし私が観察してみると、強い者が必ずしも生き延び、弱い者が必ず食い殺されているわけではなかったのです。彼
ファーストフード好きの母親から生まれた子供はアトピー性皮膚炎になりにくい。事の真偽は不明。 これとはまったく関係ないのだけど、自分の子供だけに安全な食べ物や飲み物や環境を用意してあげればあげるほど、その子供は確実に、そうでないほとんどの環境で暮らせなくなり(つまり環境に対して脆弱になる)、世間を狭くしてしまうという物凄いジレンマがあることが、少しずつすべての人に気付かれてしまいつつあるのかもしれない【隠しておったおれカネゴン】。 これは科学とかそういうこと以前に、色川武大が口を酸っぱくして主張してきた冷酷な法則にそのまま合致する【またまたそれとはおれカネゴン】。つまり、親が自分の子供だけに安全な食べ物や飲み物や環境を与えようとすることと、親が自分の子供だけをどんな環境でも逞しく暮らしていけるようにすることは、少なくとも与える親の側においては決して両立しない。そうやって大事に育てた子供の中か
文章の技術と文章の表現力(読者を魅き付ける力)は、どうやら独立した事象らしいことにようやく気付く【後から後からおれカネゴン】。つまり、文章の技術はあっても魅力のない人もいれば、文章に魅力があっても構成やら何やらがすっとこどっこいな人もいる。両方凄い人もいれば、両方だめな人もいる。 その割りに、文章力の向上云々について議論されるときに、何かとこの両者が混同されてしまうことが多いような気がする。少なくとも、この両方を混同したまま、欲張って両方とも身に付けさせようとしている(しかし実際には表現力にばかり力が入っている)ように思える。文章の技術は教えられる(つまり教科書にできる)けど、文章の表現力まで教えられるとは到底思えないし、実は表現力などなくても実用的にはまったく困らなかったりする。
稲葉先生のコメント欄。 一見関係なさそうなのだけど【関係ないとはおれカネゴン】、仏陀がしきりに強調していた「悪い友達と付き合ってはならない」という教えは、言い換えれば「悪い友達とよい友達が共に栄えることはありえない」という、実は旧約聖書にも匹敵するとても恐ろしい教えでもあったりする。 こればかりは想像するしかないのだけど、仏陀はさんざん考えた末に、頭のよい人たちのようにそれを直接言い切ってしまうことをせず、ただ「悪い友達と付き合ってはならない」という言葉にすることで、巡り巡って遠まわしに悪い友達を飢えさせ、安楽死させることを目指していたのではないかとカネゴン夢想してしまう。どんな聖典にも(読者を惹きつけるための)適量の毒が含まれていることを痛感【悪い友達おれカネゴン】。
中国の人口の歴史。個人的に、最近最も感動した文章。もう引用せずにいられない【わくわくするとはおれカネゴン】。色川武大に読んで欲しかった。 具体例1: 前漢末、六千万人近かった戸籍登録人口は、短命に終わった新王朝(西暦8−23年)期の動乱によって激減した。(中略)六千万から二千万へ、政府の戸籍把握力の低下を考慮に入れても、戦慄すべき減少ぶりである。現代の中国の人口学者たちは、両漢交代期の人口崩壊によってわずか一世代の間に人口が半減したと見積もっている。 清朝の康熙帝(在位1661−1722年)の統治の末年、一億人の大台に乗ったころから未曾有の人口増加がはじまった。(中略)わずか百年あまりの間に、実に四倍にまで増加したのである。 近代以前の中国は、他の文明圏からほとんど孤立状態にあり、人口の出入りも少なかった。残酷な言い方をすれば、この巨大な「金魚鉢」の中で、中国人は人口崩壊と回復のサイクルと
スマトラ島沖大地震で観光地に幽霊が。 死んだ人は、それを思い出してくれる人がいる限り完全には死なないというか、生命が半分残っているとカネゴン信じている【夏がくるたびおれカネゴン】。誰も思い出してくれなくなったとき、その人は真に死ぬ。それが証拠に、死後2000年経ってもまだ生きている人がいる。なので、墓は死者が思い出してもらうための外部ストレージであり、骨壷に入った舎利はマイクロカーネルであり、仏壇はリモートアクセスのためのコンソールであり、遺影はさまざまな思いが投影される液晶モニタであり、墓参りは死者の命を補強するためのメンテナンス行事なのだと思う【夜は墓場でおれカネゴン】。 ふと思ったのだけど、有名になりたい人がこれほど多いのも、ひょっとしたら不滅の命を授かるかもしれないと考えてのことだったらどうしよう【先は短いおれカネゴン】。実際にはほとんどの有名人も流行の波に(下手をすると生きたまま
前にも聞いたような気がするけど教えて欲しい。カネゴンが10年以上前に米国西海岸の科学博物館(それがどこかも思い出せない)の廊下で見かけた、最大限シンプルなピタゴラスイッチ的装置を何と呼べばよいのかを。 それは大理石か何かでできている、傍目には手洗い鉢のような代物。一辺が1m程度の直方体で、上に洗面所のような大きな円い漏斗のような窪みがある。その窪みは、ちょうどブラックホールの模式図のカーブをもっと浅くしたような感じで、中央にちょうどコイン程度のサイズの穴が開いている。正直、最初は何かばっちいものかと思ってしまった。 その窪みの一番上の縁に、円周に沿って短い切れ込みというか溝があり、どうやらそこにコインを立てろということらしい。その溝自体が斜面になっているので、立てたコインはそのまま溝に沿ってついと転がり出す。と、走り出したコインはこの窪みの曲面に沿ってすっくと立ったままいつまでもいつまでも
意思主義とネット人格・キャラ選択時代。途中にどさくさに紛れて書いてあった部分に目が留まる。 こうした理屈によって、なんと私たちは法律に従うことで「自由」になれるということになる。これが「近代的あるいは理性的自由」。私たちは「自由になるために、法律に従うべき」ということになる。そして、法律は、私たちの不完全な理性によって生じた非理性的状態を回復するために機能し、国家権力を後ろ盾として「理性的な当事者であれば実現したであろう状態」を実現するわけだ。近代理性万歳!(ウソ) 場の空気云々は、うつけものの織田信長が殿様になったら殿様の顔つきになったとか、教師を長くやっていると不思議に教師の顔つきになるとか、以前教えていただいた怖い実験など枚挙に暇がないので、それほど珍しくはなさそう。 ただ、自分のしでかしたことを「自分が悪いんじゃない、場の空気が悪い。自分は場に合ったキャラを演じていただけだ」と言い
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