[語られなかった戦争] Wislawa Szymborska Koniec i Poczatek,1993. 終わりと始まり 作者:ヴィスワヴァ・シンボルスカ出版社/メーカー: 未知谷発売日: 1997/06/01メディア: 単行本 終わりと始まり 戦争が終わるたびに 誰かが後片付けをしなければならない。 物事がひとりでに 片づいてくれるわけではないのだから 誰かが瓦礫を道端に 押しやらなければならない 死体をいっぱい積んだ 荷車が通れるように ノーベル文学賞を受賞したポーランドの詩人による詩集。彼女の言葉はとてもシンプルで、こ難しい言葉はほとんど使わない。言葉少なに、戦争の日々や愛する人の喪失を語る。なんとなく、アゴタ・クリストフを思い出した。真っ白い立方体を積み上げるような、シンプルだけど物悲しいイメージがある。 シンボルスカは戦争を「歴史」の出来事にしない。歴史は、いくつもの事象を組
わたくし達は第二次大戦後に、西脇先生から教えをうけた世代に属するが、それでも、昭和初年に、帰朝直後の西脇先生から教えをうけた人たちの感じたであろう新鮮な衝撃は、充分に理解することができる。 かつて西脇先生は、ある戦後の文章のなかで、いかに汲々として英語の韻律法を暗記し、ウォルター・ペイターの蜿々たる美文を範として真似し、これらを典範としてイギリスに行ったところ、彼の地では、いまや文学の風土はがらりと変わっており、韻律法もペイターも、何の価値もないものとされるに至っていることを知り、「痛ましいばかりに落胆」された次第を、乾いた筆致で見事に描破されたことがあった。 久しきにわたるロマン主義の支配から、欧米は自然主義の時代を経過して、そのあと、ダダイズム、未来派、シュルレアリスムをくぐりぬけ、総じて、主知主義的傾向に向かおうとする時代――おそらく、イギリス文学が、最後の世界主導権を発揮しえた最も
二日前は三日前となる。三日前は三年前となる。愛について書くときに欠けているのは愛であり、かなしみについて語るときに消し去られるのはかなしみである。これだけが絵画や音楽には真似のできない言葉の軽業であり、逃避であり救済である。 逃避をだれが責めたりできよう。自分じしんだけである。いったいだれが自分じしんを責めよという圧力をかけるのか。他者だけである。しかも責める必要はないと言ってくれるのも他者である。他者から逃げながら他者にすがっている。 渡り賃なら しろかみの 舟守りの指のささくれの もぎる枯草 風に鳴く、緑の水をかたく押し分け 離る 草振る 捨てた岸辺のあの煙突 鉛に煤けた指の燃えゆく あまたの文字の白く燃えゆく 蓋をされた空を見上げていたどこかで蓋の下をおよぐ鰯を追った。限りがある数をかぞえていた。私が喪失をしんじないのは、糸をにぎりしめているからだ。ただ二度と手繰り寄せない糸が風とか
Twenty Years There are twenty years to go And twenty ways to know Who will wear Who will wear the hat There are twenty years to go The best of all I hope Enjoy the ride The medicine show Thems the breaks For we designer fakes We need to concentrate On more than meets the eye There are twenty years to go The faithful and the low The best of starts The broken hearts of stone There are twenty years t
やらなければいけない仕事があるのだが、黒田三郎のことが頭から離れない。洗濯物をとりこんだり、食器を洗ったり、手紙の返事を書いたり、いろいろなことをしているあいだも、ずっと引っ掛かっている。 毎日のように本を読む生活をしているが、わたしはそんなに詩を読んでいるわけではない。全読書量の十分の一も詩や詩に関する文章を読んでいないかもしれない。たまに読む。そのときなにかしら心を揺さぶられることは多い。今もそうだ。 《今こそ私は申します 貧しく 無力な 妻や母や子や妹のために すべての貧しく無力なものから 小さな幸福と 小さな平和と 小さな希望を 取り上げて それで あなた方は一體何を守るというのですか 夫や子や父や兄を駆り集めて それで あなた方は一體何を守るというのですか》 (黒田三郎「妻の歌える」抜粋/詩集『渇いた心』) 鮎川信夫著『自我と思想』(思潮社、一九八二年)における北村透との対談で、
April 12, 2007 「岩が」 ・・・ 吉野 弘 テーマ:心に残ることばを 書いていきます(130) カテゴリ:カテゴリ未分類 「岩が」 吉野 弘 岩が しぶきをあげ 流れに逆らっていた 岩の横を 川上へ 強靱な尾をもった魚が 力強く ひっそりと 泳いですぎた 逆らうにしても それぞれに特有な そして精いっぱいな 仕方があるもの 魚が岩を憐れんだり 岩が魚を卑しめたりしないのが いかにも爽やかだ 流れは豊かに むしろ 卑屈なものたちを 押し流していた 幻・方法 より 自分の考えを述べることは 邪魔をしたり 嫌がらせをすることではない ただ 流れのままに従うだけでなく 自分の意見を はっきりと表現してもいいのではないか 対する側も はねつけたり 無視したりせずに 正々堂々と受け入れ 対処していけばいい ちょっと そんなことを 思いました (*^^*) ぽち いつもありがとうございます
2008年08月12日 虹の足 詩:吉野弘 テーマ:小さな幸せ探し(106) カテゴリ:詩 虹の足 吉野弘 雨があがって 雲間から 乾麺みたいに真直な 陽射しがたくさん地上に刺さり 行手に榛名山が見えたころ 山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。 眼下にひろがる田圃の上に 虹がそっと足を下ろしたのを! 野面にすらりと足を置いて 虹のアーチが軽やかに すっくと空に立ったのを! その虹の足の底に 小さな村といくつかの家が すっぽり抱かれて染めていたのだ。 それなのに 家から飛び出して虹の足をさわろうとする人影は見えない。 ――おーい、君の家が虹の中にあるぞオ 乗客たちは頬を火照らせ 野面に立った虹の足に見とれた。 多分、あれはバスの中の僕らには見えて 村の人々には見えないのだ。 そんなこともあるのだろう 他人には見えて 自分には見えない幸福の中で 格別驚きもせず 幸福に生きていることが――
2009/03/18 吉野弘「過」「自分自身に」 カテゴリ:カテゴリ未分類 吉野弘さんの詩が好きだ。吉野弘さんの全詩集(1994年版)を読み通した。吉野弘さんの詩は好きな詩、有名な詩がたくさんある。溢れるほどある。詩集では『北入曽』が一番だ。 その『北入曽』から好きな詩のうち短いものを二つ紹介しよう。 自分自身に 他人を励ますことはできても 自分を励ますことは難しい だからーというべきか しかしーというべきか 自分がまだひらく花だと 思える間はそう思うがいい すこしの気恥ずかしさに耐え すこしの無理をしてでも 淡い賑やかさのなかに 自分を遊ばせておくがいい 過 日々を過ごす 日々を過つ 二つは 一つことか 生きることは そのまま過ちであるかもしれない日々 「いかがお過ごしですか」と はがきの初めに書いて 落ちつかない気分になる 「あなたはどんな過ちをしていますか」と 問い合わせでもするよう
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く