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自分でもよくわかっているわけではないのだがたとえば(これはあくまでも一例でしかない、自分はホームレス問題について深刻な関心を持ってはいない)、ホームレスの公園「占拠」を巡る事件において、事実としてではなく権利としての「占有」の意義が下手をすれば浮上しかねない、といった話が妙に頭の隅に引っかかっている。 そして木庭顕先生は、あろうことか「法の核心は占有にあり」ととんでもないことをおっしゃる。世界のどこにでも普遍的にある広い意味での「法」ではなく、今日の我々の実定法、市民法と司法のシステムとそれを支える学理としての「法」の核心は、もちろん「人権」などではないがさりとて「所有」でもなく、今やほとんど死にかけてその意味も見失われている「占有」である、と。しかしそのことはローマ法、それも「所有」概念とともに爛熟期を迎えた帝政期のではなく、共和政期のそれを見なければわからない、とも先生はおっしゃる。
いやいや何を言っているんだ自衛隊は国家の暴力装置に決まってるだろう(参照:「仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 参院予算委で発言、撤回」(asahi.com))。国家が(ほぼ)独占的に保有する暴力こそがその強制力の保証だというのは政治学にせよ法哲学にせよ基本中の基本であり、その中心をなすのが「外向きの暴力」としての軍隊と「内向きの暴力」としての警察である。で、日本では主として歴史的経緯によりこの両者が相当明確に区別され、かつ現実的にもあまり仲が良かったり悪かったりという話があるわけだが(戦前ならゴーストップ事件が典型ね)、フランスやイタリアにある国家憲兵隊制度や、発展途上国に多い警察軍制度に示されているように暴力としての本質に違いがあるわけではなく向きを変えれば同じものであると、そう整理されることになる。 その上で、まあ法哲学的にはゆえに国家は本質的に悪であるとする立場と、しかしこの暴力抜きには社
救急車のサイレンが遠ざかっている。遠ざかるサイレンの中で「権力」と「暴力」の不穏な依存関係について書かれた書を開いた。 <権力>はつねに、暴力という汚れた斑点のようなものに支えられていなくてはならない。(略)<軍隊>、<教会>、家族、その他すべての「政治的ならざる」社会組織のなかにおいて、暴力が容認され、有無を言わせぬ従属関係を強いられている様態は、それ自身が何らかの倫理的―政治的な抗争とその結果を「具現化」したものなのである――批判的な分析作業は、これらすべての「政治的ならざる」ないしは「未だ政治に至らぬ」ものの関係を背後から支える見えざる政治権力の働きを、はっきりと識別する必要があるのだ。 こういうことだ。「政治的ならざる」軍隊や教会、学校にある暴力は、そのまま政治的な権力の行使ではないが、その政治的な権力を補完する暴力をそっくりに例示している。「例示」とはなにか。権力へのひめやかな欲
素晴らしい書評をひとつ↓ http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50950586.html 法律とは喧嘩のルールだと思っています。 なるべく喧嘩はしたくないもので、なるべくお互いのコミュニケーションの中で解決していきたいものですが、しなくちゃならない時があったりするかもしれません。 その際、ルールを守らないと、お国が折檻しに来ちゃうのでルールはしっかり知っておくべきです。 知っておけば喧嘩になる前に有利な立ち回りをすることもできます。 なので、ざっくりとルールが把握できる本書を読んでおこう。 だけど、くれぐれもルールを振りかざして、モンスター社員とか言われないように気をつけましょう。 労働法のキモが2時間でわかる本 作者: 石井孝治出版社/メーカー: 日本実業出版社発売日: 2007/11/15メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 14人
第三部再訪。「ゲゼルシャフト」概念の起源としての自然法論について。 解釈学と実践哲学―法と歴史の理論によせるヘルメノイティクの新たなる地平 (1984年) 作者: マンフレート・リーデル,河上倫逸出版社/メーカー: 以文社発売日: 1984/10メディア: 単行本この商品を含むブログ (5件) を見るhttp://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=25890 第三部 解釈学と社会哲学 政治哲学におけるパラダイムの転換か──ホッブズとアリストテレス(1981) 古典古代政治学および近代自然法におけるゲゼルシャフト概念のトピクについて(1965) 制度の弁証法──ヘーゲル法哲学の歴史的・体系的構造について(1977) 「古典古代政治学および近代自然法におけるゲゼルシャフト概念のトピクについて」 Brunner-Conze-Koselleck のレキシコンに「ゲゼル
同時代に見られるつながり方を踏襲するのではなく、つながることそのものを原理的に考察してしまうと、簡単にはつながれなくなる*1。 つながるというのは、固定的なナルシシズムのスタイルを共有することか。 維持されたナルシシズムを破壊にかかる、そういう作業に入らざるを得ない体質の場合、どんなつながり方があり得るのか。 相手の分析の独立を保証するよりも、ナルシシズムを保証する信仰対象を与えたほうが喜ばれる。――ガタリは「分析装置=触媒装置(analyzer=catalyzer)」と語ったが、今は分析が、触媒というよりは嗜癖の対象になっている。 作家の役割は、ナルシシズムを保証することではなくて、降りかかるナルシシズムの破綻から目をそむけないことではないのか。 「ナルシシズムの確保に向けて書く」ことは、恣意的に利用可能な消費財をつくることでしかない。 *1:というか、実は「つながりを考察する」ことが、
「脳死は人の死か」「臓器移植に本人の意思表示は必要ないのか」−。国会での審議が拙速との批判を受けながらも、衆院解散の流れにのるように臓器移植法の改正案が13日、参院で採決され、「A案」が可決、成立した。 脳死は一般に人の死と位置付けるA案を支持するNPO法人「日本移植者協議会」の大久保通方(みちかた)理事長は、「感触は分からないが、議員の先生方を信じている」と厳しい口調で話し、議場へと足早に向かった。 本会議でA案が可決されると、大久保理事長らは「やったー」と声を上げ、支援者らと固く握手。昨年12月、心臓移植の直前に1歳で亡くなった中沢聡太郎ちゃんの母、奈美枝さん(34)はその場で泣き崩れ、父の啓一郎さん(37)がそっと肩を叩いた。裁決が終了すると、啓一郎さんはその場で一礼し、議場を後にした。 【関連記事】 ・ 臓器移植法 A案成立に反対派は「違和感」の涙 ・ 改正臓器移植法が成
白井大介 目次 はじめに 序章 研究の動機と紛争理論の生まれた背景の一側面 第1章 紛争の理論化に向けて〜先行研究から〜 第1節 紛争の定義 第2節 紛争研究の方法と紛争の諸形式について 第3節 紛争解決学という視点 第2章 規範について 第1節 規範の成立とその安定 第2節 紛争解決規範としての法の役割 第3節 法以外の紛争解決規範 第3章 民事紛争解決における規範の働き 第1節 民事紛争解決の類型 第2節 公的機関によらない民事紛争解決の構図 第3節 民事紛争解決における規範 終章 紛争解決に向けて おわりに 序章 研究の動機と紛争理論の生まれた背景の一側面 紛争はなぜ起こるのだろうか。世の中は紛争で溢れている。個人間におけるものから、国家間におけるもの、それとは別の集団間で起こるものと紛争は多様である。現代政治に目を向ければ、そこでは民族紛争が主要な国際問題として存在する。国家レベル
脳死:全脳機能 (大脳〜脳幹) の不可逆的停止状態、全脳死。各臓器への血流が保たれている状態で、臓器移植のドナーとして理想的と考えられている。欧米では脳死を人の死と法律で定義しているが、反対の考えの人もいる。日本では「臓器の移植に関する法律」により、臓器移植が適切に行われる場合に限り心臓死でなく脳死を人の死とする限定脳死説を採用。 植物状態:大脳の機能が廃絶し、脳幹機能の一部 (特に下部脳幹) ないし全部が残っている状態。大脳機能のみの不可逆的停止状態、大脳死とほぼ同義。個人 (人格) を精神活動で定義するならば、植物状態になった時点でその人の死とする考え方もある。 ○脳死・臓器移植はなぜ必要か 一部の疾病に対し、現在の医学レベルでは臓器移植が唯一の現実的な治療法 (代替治療法:人工臓器、遺伝子治療、臓器複製、拡張型心筋症に対する左心室縮小形成手術など) 腎臓、角膜以外は酸素不足に弱い
馬場靖雄 93年度関西社会学会での報告原稿 『複雑性の海へ』(松岡正剛他共著、NTT出版、1994) に所収 (1) ダグラス・クリンプは、モダニズムの黎明期と現代において、「引用」という同一の手法を用いて作品を制作した二人の画家を比較することによって、ポストモダンのこの特徴を明らかにしようとしている(Foster[1983=1987:81-103])。マネの「オランピア」では、「イメージを担う画面を一つの絵として読み取らせるような、構造的一貫性」をあくまで前提としつつ、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の創造的変容が試みられている。デフォルメは、「マネのオリジナルな作品」という統一的全体に奉仕するために行われるのである。一方、「コンバイン・アート」の旗手であるロバート・ラウシェンバーグが、ベラスケスとルーベンスを題材にして制作した一連の作品においては、「原作の写真をシルクスクリー
成年後見制度の概要成年後見制度は精神上の障害(知的障害、精神障害、認知症など)により判断能力が十分でない方が不利益を被らないように家庭裁判所に申立てをして、その方を援助してくれる人を付けてもらう制度です。 たとえば、一人暮らしの老人が悪質な訪問販売員に騙されて高額な商品を買わされてしまうなどといったことを最近よく耳にしますが、 こういった場合も成年後見制度を上手に利用することによって被害を防ぐことができる場合があります。 また、成年後見制度は精神上の障害により判断能力が十分でない方の保護を図りつつ自己決定権の尊重、残存能力の活用、 ノーマライゼーション(障害のある人も家庭や地域で通常の生活をすることができるような社会を作るという理念)をその趣旨としています。 よって、仮に成年後見人が選任されてもスーパーでお肉やお魚を買ったり、お店で洋服や靴を買ったりするような日常生活に必要は範囲の行為は本
きのうのエントリーを読んで、戦後の日本が「暴力的な社会」「暴力的な国家」だというなら、平和憲法はどうなるのだ、それは何の意味も持たなかったことになるではないか、と思う人がいるかもしれない。 しかし、そうではない。 戦後の日本の憲法は、元来、国家がもつこの暴力性への歯止めとして存在するものなのだが、その目的が十分に果たされず、誤った用いられ方をしてきた、とみるべきだと思う。つまりそれは、その本来の機能を十分に展開しないままに、悪い用いられ方をしてきたのであって、必要なのは、この「用法」の方をあらためる、ということである。 国家は、ある人を、他人や他の勢力、場合によっては他の国による暴力から守るという機能を果たす。だが、その方法は、暴力の合法的な独占ということであるため、国家自体が巨大な暴力となって、個々の人に襲いかかるという事態も生じうる。 憲法においては、こうした事態に際して、個々の人を国
余暇を利用してベンヤミン「暴力批判論」のとくに後半部分を再読した。 以下長文。 カント観について 『ゲーテの「親和力」について』でベンヤミンはカントの婚姻の定義を次のように評価する。 事柄の実際に即した婚姻の規定という点で、カントの命題は完全なものであり、予感を容れないという意識において崇高である。(『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味 (ちくま学芸文庫)』P47) ベンヤミンは、現実にピッタリ当てはまる、という点でカントを評価している。しかし、「婚姻の即物的自然から演繹できるのは、明らかにその非道徳性だけであろう」。 ついでに、中島義道がこんなことも書いているので引いておく。 何が目的としての人間性に適ったことであるのかは、何が適法的行為か、何が非適法的行為かの判定に依存する。そして、その判定は定言命法だけからは少なくとも直接には出てこないのであり、定言命法を時代および社会の通念と
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