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logicに関するmassunnkのブックマーク (11)

  • フレームワークと中身 - ホワット・ア・ワンダフル・ワールド

    現代数学はZFC公理的集合論の中で展開可能と言われている。 そのためZFCは数学の基礎と言われていた時代もあった。 (現代集合論は、もはやそれ自体が研究対象である。) ZFCの上での議論を厳密に展開するためには、1階述語論理 というフレームワークが使用されることが多い。自然言語による 推論よりも深い議論を行うためにはZFCの公理を形式的な言葉 に翻訳する必要があるためである。 ここで、ならば数学の真の基礎は1階述語論理なのではないか? ZFCも1 階述語論理の理論の一つにすぎないのだから、という 疑問が生まれるかもしれない。これはある意味では真だが ある意味ではナンセンスである。なぜならば我々が真に興味がある のは、ZFC そのものの抽象的な性質であり、1階の論理は あくまでも便利な議論の場を提供するだけなのである。 プログラミングの言葉で言えば、1階述語論理は確かに重要だが あくまでも実

  • プログラムにバグは存在しない - ホワット・ア・ワンダフル・ワールド

    言葉遊びに思われるかもしれないが、 言語処理系にバグが無い限り、プログラムは 書かれているとおりに動くだけなのである。 それ自体にバグは存在しない。 プログラムのバグをバグと認識するのは、 プログラムの外側の人間である。 つまり、バグは人間の心の中にしか存在しない。 プログラムがコンパイラのチェックや型理論との 整合性を通過したとしても、それはとりあえずプログラムに 論理的な不整合は無い、ということを意味するに過ぎない。 人間の心の中にある仕様と異なる動きをプログラム がした場合にのみ、それをバグと認識できるからである。 人間の心の中の仕様が無矛盾であるとは限らないので、 そもそも論理的に無理なことを仕様として望んでいる場合もある。 質的に仕様のデバッグは難しいもので、時間とともに要求も 変化する。心の中の仕様は曖昧なものなので、人間自身も 正確に把握しているとは限らない。 そこでなんと

  • Department of Mathematics | Eberly College of Science

    Acquire a foundation in pure and applied mathematics and earn a Bachelor of Arts or a Bachelor of Science degree in mathematics.

  • 数学基礎論サマースクール2009 - とりマセ

    東工大で開催された数学基礎論サマースクールに行ってきました。テーマは「非古典論理の代数的セマンティックス」 僕は非古典論理には超無知だったので、こんな楽しそうな研究があったのか!と感動です。中間論理のうちクレイグの補間性を見たす論理の数に関する定理なんて超驚きでした。いやー、部分構造論理の研究って面白そうですね! いいですね!  しかし、参加者は非古典論理やその周辺分野を専門に研究なさってる人が多かったため、事や懇親会でその辺の分野の専門的で技術的な話題が出ることが多かったのです。非古典論理に疎い僕には、彼らの話題に付いていくことが全くできなくて、ちょっと困りました。 「いやー、僕、部分構造論理とか様相論理とかみたいな非古典論理って全然勉強したことないんですよ」ぼそっとそう呟いたら、「へー、ロジック(論理学)全然やってない人なんだー」という反応が。 その発言にちょっと違和感を覚えたのです

  • 読了『メタマス!』 - Personal_NewsN

  • 平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(前編):Kenn's Clairvoyance

    芥川賞作家であり学生時代の悪友でもある平野啓一郎の短編集の新著『滴り落ちる時計たちの波紋』が刊行された。 ざっと読み終えてみての感想は、スタニスワフ・レムが「ソラリスの陽のもとに」のような硬派SFから「虚数」のようなジョークすれすれの衒学趣味へと傾倒していったように、エクリチュール芸術としての文学の方法論的な限界を試すことが、前作の「高瀬川」以降、平野の目下の関心事であるらしい。アバンギャルドな形式それ自体の挑発的性格から、巷の読者の間で賛否両論を巻き起こしているであろうことは容易に想像されよう。しかし私自身はと言えば、これらの作品群を以て文学史ポートフォリオにおけるどの座標を取りにいくかという長期的な視座に基づいた平野の戦略を、極めて肯定的に解釈・評価している。 中でも刊に収録されている『バベルのコンピューター』は、ドキュメンタリー調メタフィクション(すでにして重層的な矛盾!)として秀

    平野啓一郎『バベルのコンピューター』に見る新たなアポリア(前編):Kenn's Clairvoyance
    massunnk
    massunnk 2009/08/02
    そんな話書いてるのかー平野さん
  • アニマルスピリット - 情報考学 Passion For The Future

    ・アニマルスピリット ノーベル経済学賞受賞者ジョージ・A・アカロフと『投機バブル根拠なき熱狂』著者ロバート・シラーという二人の著名な学者が、経済におけるアニマルスピリット(行動への突発的な衝動)の質的な役割を明らかにする。翻訳は山形浩生で解説も書いている。 最近流行の行動経済学は人間の不合理さ(あるいは不合理に見える合理、合理に見える不合理)を強調しているが、そもそもマクロ経済学の父であるケインズが、アニマルスピリットの重要性を指摘していた。 アニマルスピリットの5つの側面として安心、公平さ、腐敗と背信、貨幣錯覚、物語が挙げられている。これら5つの要因が絡み合って、19世紀以降の大恐慌の大きな原因となってきたいう歴史的な説明がとてもわかりやすい。 「当の問題は、これまで何度も見たように、現在の経済学の相当部分が根底に持っている通念だ。マクロ経済学やファイナンスの専門家のあまりに多くが、

  • ペアノの自然数論とZFC集合論は同型? - とりマセ

    しばらくドイツ出張でまたブログの更新が出来ないので、ちょこっと話題提供代わりにちょっとした記事を書き残していくことにします。  さて、論理学を学んでいる人には有名かもしれませんが、数学基礎論において、マリアン・プール-エルとソール・クリプキによる一見すると驚愕の定理があります。 それは、自然数論の理論であるはずのペアノ算術と、もっと遥かに巨大な理論であるはずのZFC集合論が、証明の形式を見る限りでは同型であるというものです。 プール-エルとクリプキの定理 (1967)実効的分離不可能理論たちの間には演繹を保つ計算可能な同型写像が存在する。したがって、特にペアノ算術とZFC集合論の間にも演繹を保つ計算可能な同型写像が存在する。 プール-エル&クリプキ「自然数論と集合論は実は同型だったんだよ!!」Ω ΩΩ「な、なんだってー!!」 現代数学基礎論から見たプール-エルとクリプキの定理 この定理は、

    massunnk
    massunnk 2009/07/29
    宇宙人の話を聞いてるようだ
  • 自然に訴える論証 - Wikipedia

    自然に訴える論証(しぜんにうったえるろんしょう、英語: appeal to nature)とは、「あるものが良いのは『自然』だからであり、悪いのは『不自然』だからである」と主張する議論や弁論術のことである[1]。暗黙の(明言されていない)「自然なものは良い」という大前提は、通常は良し悪しとは無関係であり、事実ではなく意見であるため、悪い議論であると考えられている[1]。 文脈によっては、「自然、天然」という用語の使用が曖昧で、他の概念との意図しない関連付けを引き起こすことがある[2]。また、「自然」という言葉は、「普通」という言葉と同じように、文脈によっては、暗黙の価値判断を伴うこともある[2]。「自然への訴え」は、結論が前提に内包されているため、このような問題を提起することになる[2]。 この議論の一般的な形式は、 「自然なものは良い/正しい」→「Nは自然である」→「したがって、Nは良い

  • カール・セーガンの思考キット

    カール・セーガン最後の著書「人はなぜエセ科学にだまされるのか」に紹介された、思考の方法の要約 です。 高額のトンデモ・アクセサリーが多いオーディオの世界を自分の目で見極めるために、科学的思考を 身につけましょう。 懐疑的思考の道具 ●裏付けを取れ ●議論のまな板に載せろ ●権威主義に陥るな 権威はこれまでも過ちを犯してきた。これからも間違えるだろう。 ●仮説は複数立てろ ●身びいきをするな ●定量化しろ 尺度があって数値化されれば複数の仮説の中から正解を導くことができる。 ●弱点をたたき出せ 論証が鎖のようにつながっていたら、全ての鎖の輪が完全であること ●オッカムのかみそり データを同じくらいうまく説明する仮説があるなら、より簡単なほうを選べ ●反証可能性 少なくとも原理的に反証可能かを問うこと。原理的に反証不可能な論理には無価値なものが多い。 実験のやり方 ●対照実験をしろ プラシボ効

  • 数学屋のメガネ:論理的な観点で文章を読み・書きするための作文技術 - livedoor Blog(ブログ)

    先日、多勝一さんの『日語の作文技術』(講談社)の新装版を見つけて購入した。僕は、これが最初に出版されたときから愛読している。これによって自分の作文技術が確かに向上したと感じている。それは、文学的な意味での文章力が上がったというのではない。論理的な思考を表現するという意味での文章力が上がったと感じることが出来た。 僕は、数学を専門的に勉強し始めたとき、その論理を理解することに非常に苦労をした。それは今振り返ると、日語で論理的に考えることの難しさに苦労したと言えるのではないかと思う。僕の数学における転回点は、記号論理学を勉強したときだった。それまで日語で考えていた数学を、ほとんど記号論理に翻訳し直してみたら、嘘のように理解が進んでいった。日語と記号論理の違いがどこにあるかというのが、その時の僕の最大の関心事になったものだ。 意味に多様性があるということは、意味を取り違えると言うことも

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