絵の超初心者ド下手くそ人間が、20日間絵を描いて感じたこと わたしは、「文の人」だ。絵を描くのは大の苦手。 そんなわたしが、ひょんなことから絵を描き始めた。 そうしたらおもしろくなって約20日間、なにがしかを描きつづけている。 未知の領域での挑戦は、発見が多い。 また、ここまで絵を描けない人間の挑戦は、あまりネッ…
友人からリクエストがあったので、今更ではありますが、去年のクリスマスに紀伊國屋ホールで催されたトークイベント『ゼロ年代の批評の地平』の概略をレポートします。このイベントは昨年11月に青土社から刊行された書籍『波状言論S改』の発売を記念したもので、パネリストは批評家の東浩紀、社会学者の北田暁大、切込隊長こと山本一郎、精神科医の斎藤環、さらには客席のほうに宮台真司もおりました。 知らない方もいらっしゃると思うので、まず『波状言論S改』について説明しておくと、これは東浩紀が2004年に発行していたメールマガジン『波状言論』のなかから社会や政治に関連した鼎談を選り出して書籍化したものです。掲載されている鼎談は3つで、東浩紀と鈴木謙介が毎回ホストを務めてます。1つめの鼎談のゲストは宮台真司で、テーマは「脱政治化から再政治化へ」、2つめが北田暁大で「リベラリズムと動物化のあいだで」、3つめが大澤真幸で
紀伊国屋ホールで開かれたトークショウ。東浩紀・北田暁大・斎藤環・切込隊長こと山本一郎。 メタな理論とベタな現実の往復運動=批評を実践せよ。 全然、往復運動してなかったし、実践もしてなかった。 開始30分で、「保守とリベラルというのは立場取りでしかない。現実は変わらないし、言語は意味がない。現実解はポピュリズムしかない」という結論で行き詰まる。やがて切込隊長と斉藤氏が、東氏は何がしたいのかと問い詰め始める展開に。なんじゃそりゃ。 東氏は自分の目的としてこんな風に言いました。「人間とか主体的決定とか大きな物語がなくても、テクノロジーを工夫すればやっていけるのではないか」。なんちゅーか、隠れオタ(あるいはスノッブ)も安心して生きられる世界を作りたい、って言っているようだなと思た。 丁度会場に来るまで、北田氏の「嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)」を読んでたのですよ。なんで、後半の互
外出準備をして、午前配送指定にした『ユメミルクスリ』が来るのを待つ。受け取って速攻で外出、秋葉へ。メイドリフレへ。1時間後にお越しください、とのことだったので(このとき「行ってらっしゃいませ」と言われます。戻るともちろん「お帰りなさいませ」)、エスプレッソ・アメリカーノで昼食を取りつつ時間をつぶす。戻る。メイドさんに「あの漫画、名前は知ってましたよー」と言われる(17日の日記参照)。メイドさんに読まれてるみちアキのブログです。昨日とかもうすごい混んでましたー、という話を聞く。お休みですからねー、と彼女は言うのだけど、たぶんイベントDAY(メイドさんがみなサンタ服)+彼女いません、のせいだろうと思う。マッサージをしていただいたあとで、用意していったプレゼントを渡す(可愛い女の子はすべからくクリスマスプレゼントをもらうべきであるから)。好評を博した、と思う。渡したものは内緒。手作りクッキーをい
上記トークの反響です。いつもお世話になっている成城トラカレで紹介されていたものを、そのまま転載します。 ◆「Kawakita on the Web:仲正昌樹×北田暁大トークセッション「わかりやすいことは、いいことなのか?―メディア・政治・ロマン主義―」参加」 ◆「言ノ葉:仲正・北田対談」 ◆「鮭缶の日記 :仲正昌樹×北田暁大トークセッション 「わかりやすいことは、いいことなのか?」 ◆「過下郎日記:非モテ雑記 仲正昌樹×北田暁大トークセッション」 まだ正式な告知がされておりませんが、以下のトークセッションを企画しました。 JUNKU 連続トークセッション 宮台真司×内藤朝雄 「精神的売春を強いる社会」 日 程: 2005年12月29日(木) 19:00〜 入場料: 1000円(ドリンク付) 場 所: ジュンク堂書店池袋本店 4階カフェにて 定 員: 40名(お電話またはご来店にてお申し込み
三省堂本店で開催された双風舎*1主催の仲正昌樹×北田暁大トークセッション「わかりやすいことは、いいことなのか?―メディア・政治・ロマン主義―」に参加して参りました。 内容は、前半は仲正さんの著作『デリダの遺言』を、後半は仲正さんが参加された雑誌・諸君!12月号の小谷野敦×仲正昌樹×八木秀次鼎談「この世の嫌われモノをどうする! タバコ・フェミニスト・監視カメラ・人権擁護法案…」を起点としての「左派をしっかりさせるための」左派批判といった感じでした。 以下に、語られたすべてではありませんが印象に残ったことをまとめてみました エクリチュール(書かれた言葉)は、常に、すでに「死んだ言葉」であって、それと「話し言葉」との対応関係を求めていく思考をデリダは「音声中心主義」として批判した。 「死んだ言葉」と「生きた言葉」の一致を求めていくような欲望はなかなか潰えず、現代でも違う文脈で何度も回帰して、「生
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く