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*postに関するsetofuumiのブックマーク (4)

  • 瀬戸風味@はてな - 萌えの話

    2006-09-27 - 倒錯社::公開編集会議 萌えリテラシーが低いことで有名な俺なのでROMのつもりだったのですが、「萌え」が普及していった時代とリビドー溢れる時期が重なっていた世代であるだけに何かないかなぁ、と思っていたところ、友人との会話が成功したので記録。 マクラ 「萌えが使われだしたのは俺らが中高生のころのToheartとかエヴァとか声優ブームとかそこらへんだと思うんだが、10年経ってあのころを振り返るとどうよ、という話」 「ぶっちゃけ気で萌えてたとかじゃなくてそれをネタに周りと盛り上がるのが楽しかっただけであんまり覚えてない」 「うわそうなの」 「口じゃあのキャラたまんねーとか言うけどそこから広がる会話が楽しかっただけだな」 「俺の苦悩はなんだったんだ…」 「その頃あんまり「萌え」って言ってなかったんじゃないか?」 「あれそうだっけ?」 「マルチ萌え〜、ってのは確かにあった

    瀬戸風味@はてな - 萌えの話
  • 稲葉振一郎氏による『ゲームと共同体』をダシにする - 倒錯社::公開編集会議

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060629#p3 どうも三日坊主ということで、ここの公開討議もさびれていくような感じがしましたが、稲葉氏が刺激的な話をブログに出していたのでそれらをダシにして討議という形にしたいと思います。そこで大まかな形で、図を作ってみました。下がその図です。 あまりにも簡単な図ですが、要するにゲームゲームたる所以はルールの束として記述されているということに言えるかと思っています。ルールの束が恐らく「プログラム」という場になるのでしょう。これらのルールの束は想定されるプレイスタイルを生み出し、それに派生していくという形になるでしょう。しかし、これらルールの束を人為的に束縛するやり方が生まれてきます。それが「やりこみ」という形ですね。それが下の図となります。 これは誰でも考えることなのですが、しかしルールの束がそのルールを

    稲葉振一郎氏による『ゲームと共同体』をダシにする - 倒錯社::公開編集会議
  • 瀬戸風味@はてな - 競技としてのゲームとコミュニケーションとしてのゲーム

    http://d.hatena.ne.jp/tosakusha/20060703/1151891613 normalな目的: ある程度やり込む、つまりゲームでの目的を果す(クリア)すると、 転用、手段化: 次の段階は、ゲームを手段として、仲間内で遊ぶ、みたいなところがあった。 ここらへんの問題から、ゲーム製作側が変わったのではなく、先に変わったのはユーザー側ではないか、と自分は考えています。ある時期までの「ゲームをやりこむ」という行為は、一地域のゲーセンあるいは学校のクラスの中においてのリアルな競争(ファミコン時代は"友達に差をつけろ!"というアオリが一般的だったような)。もしくはコミュニケーションツールを兼ねた一人遊びであって、そこから外側へ出ると「高橋名人の16連射」とかのファンタジーになっていたんではないでしょうか。そしてこの時点では、ゲームにおけるルールというものはそのゲーセンなり

    瀬戸風味@はてな - 競技としてのゲームとコミュニケーションとしてのゲーム
  • ■ - setofuumiの日記

    うっかり無断リーブしてしまった http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/setofuumi/10060703 http://d.hatena.ne.jp/tosakusha/20060703/1151891613 瞬間的なもの。スポーツ。ウメハラ動画とか。 物語的なもの。映画小説。トライ&エラーの映像化、文章化。低Lvクリアーの過程やロジックの記述。 「瞬間そのもの」 「瞬間のツギハギ(積み重ね)」 「瞬間」を「物語」にはできるが「物語」を「瞬間」にするのは無理(? 「クリアー」(アナログ?) 「フルコンボ」(デジタル?) 音ゲー、シューティングだとわかりやすい?でもトライ&エラーするのは一緒 入力 アナログな操作(瞬間の選択) デジタルな操作(ロジックの実践) 出力 デジタルなタイムやスコア、あるいは「勝利(敗北)」「成功(失

    ■ - setofuumiの日記
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