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趣味のWebデザインに関するstr017のブックマーク (10)

  • 趣味のWebデザイン - 経済本の選択と読む順番のメモ

    8月に衆議院が解散されてからというもの、ちょっと経済に興味を持っていろいろ読んでいます。じつは読み始めたのは9月に入ってから、というのがいかにも私のペース。 社会科は小中高と一貫して私の得意科目。センター試験で選択した政経も93点取れた。じゃあ経済に明るいの? と問われると、困ってしまう。経済財政諮問会議のメンバーさえ低レベルな議論をしているのだそうですから、工学部に進学して新聞を読み続けているだけの私がレベル高いわけがない。 まずは入門書から、というわけで最初に読んだのが細野の改訂版。3冊並べましたが、読んだのは「日経済篇」のみ。初歩的な概念がわかりやすく解説されていて、助かりました。 次に郵政民営化関連のを読もうと思って何冊かパラパラと。跡田直澄さんのは面白かったので買って読了したんだけど、いろいろご批判が(2005年衆議院議員総選挙→与党が2/3到達)。でも政府に近い立場の人

  • Gyao かわいそう

    偽・うpのギョーカイ時事放談SUPER! 第4回 アニメ制作者がネットラジオでニ○○○動画を痛烈に批判 - GIGAZINE 痛いニュース(ノ∀`):アニメ製作者が、アニメの違法アップロード&ニワンゴに問題提起 「灼眼のシャナ」のプロデューサーがニコニコ動画を批判したラジオが話題になった。DVD を買ってくれなきゃ生きていけない、という訴えに、値段が高すぎる、という反応が。だからニコニコ動画で見ているんだ、という開き直り。 こういう話をする場合、とりあえずとっつきやすいところで GyaO@ShowTime のラインナップを確認することをお勧めしたい。Gyao では、なんと「シャナ」全24話が1932円です。これでも高いか。 「ひぐらしのなく頃に解」が1~3話無料、4話以降は1話105円で配信中。手頃な値段だと思う。犯罪に加担して開き直って世間に理解されるような価格とは思えない。ちなみに「ひ

  • ペンもノートも持ってこない学生の指導法

    適応できない日人たち(福耳さん) 教室へやってきた大学生が、ノートもペンも持ってきておらずゲンナリ、という話。 二十歳の大人に、「ノートをちゃんと持ってこい。」なんてこちらはとても言う気になれない。ペンを出せ、とかも。それを言うのは当に相手に対する侮辱だと思うから。だから、「ノートをとったほうが知識として後に残るよ。」とか、「まあ、ノートをとらないのもあなたがたの価値観だけれども。」とか言っても、平然としてただぶすっとして椅子にだらしなく座っている。 昔、アルバイト先で私がミーティングをやっていたことがあります。全員が高卒以上で、8割が大学生。いくつか連絡事項があるので、メモしてくださいというのだけれど、持ってきていない人がいる。 仕事でペンは使うのですが、カバンにしまって席に置き、ミーティング室へ持ってくるのを忘れてる。ノートはそもそも持っていなかったりします。おじさんおばさんはもち

  • 学生に考えさせる授業

    矛盾の止揚の教育(福耳さん) 学生に、Aという仮説を教える。そして然る後に、Aと矛盾する仮説Bを提示する。そして教えるこちらからはAB間の矛盾は解決しない。学生自身に矛盾について悩ませる。 その結果、そうとうちゃんと考えてこそ、ABそれぞれをふまえて、両者を止揚した仮説Cに学生自身の手でたどりつく。それをしてこそ、当に自分の頭で考えて、自分の頭の中にその成果が残り、洞察力という力の存在を認識できる。 そういう講義をせんとあかん、と思ったのは、いまの学生、「決まった正解を教わるのが大学の講義」と勘違いしているからである。あーこどもっぽくっていや。そんなの、チャート式でも読んどいてくれ。 僕なんぞは、考え方ではなくって、他人が勝手に決めた正解を学んで、なにが面白いのかなんて思いますがねえ。 なかなかうまくいかないというか、結局のところ、学生が演技力を駆使するだけの結果となりそう。 というのは

  • 議論の初歩テクニック:立証責任は相手に持たせる

    無断リンク禁止の否定根拠にWebの理念を出すべきではない(木俣ロバート久さん) もう少し話を一般化しておいた方がいいかな。じつはこれって、議論術の有名なテクニックなのです。 立証責任は、相手に持たせるべし。 つまり、議論になったとき、常に自分が質問する側に立つことを心がけなさい、と。しばらくは相手がいいたいことを言い尽くすよう誘導し、それから攻撃を仕掛けていく。たいていの議論に双方納得の結論は要らない。自分の希望が実現されればよい。そう割り切れば、多くの場合、自説を主張する意義は薄いと気付く。 木俣さんの示した例に即していえば、相手が「リンクの自由」説に納得しなくたって、相手がリンクを禁止する理由さえ潰せば、こちらは文句をいわせずリンクできてしまう。自分が「リンクの自由」説の立証責任を負う必要はありません。 Information Old:抑圧の責任を引き受ける:当事者スルー考 New:ム

  • 敗者を生まない「幸福な議論」の3条件

    ?B 勝てる議論、勝てない議論 そもそも「議論」に勝ち負けなんてあるのか? 私は「ある」という立場を取りますが、「ない」と主張する側の意見が提出されていないので、まずひとつ典型的な「議論に勝敗はない論」を示します。 議論に勝ち負けは存在しないといえる理由 当初の自説が、議論の結果、相手の主張に敗れて完全に破壊されたとしよう。しかしそのとき、あなたは相手の主張に感銘を受け、納得して当初の自説を放棄し、相手の主張を受け入れたのだから、説得に成功した相手も、説得されたあなたにも、何ら不都合はないはずである。 双方の主張をお互いによく理解しあった結果、両案よい部分を合わせた、より合理的な解が導かれたとしよう。このときどちらの当初案も一部だけが実現するのだが、よりよい結果となったならば、何ら不都合はないはずである。 議論を通してまったく新しい、そして素晴らしい第三の道が見えてくる場合がある。このとき

  • 閉鎖する前に考えてほしいこと

    Web サイトには寿命がある 消す理由、悲しむ理由 内面の問題と、その解決策 ミラーサイトの提案 まとめ 補遺 参考 第1稿:2003年4月24~27日 第2稿:2004年12月2日 第3稿:2006年1月12日 Web サイトには寿命がある たいていの Web サイト(以下「サイト」と略す)には「寿命」があり、毎年、たくさんのサイトが閉鎖されています。きちんと死に向き合わずとも生を享受できるのが、この世界です。明るい未来を展望するばかりでサイトの死について考えない方が多いのは、不思議なことではありません。 言葉の定義 Web サイトの「閉鎖」は様々な文脈で用いられる言葉ですが、私は次の2項目をもって定義とします。 更新が停止する 管理されなくなる サーバの都合などにより閲覧不能となるサイトは多々ありますが、作者が更新の継続を望むならば、URI は変化してもサイトは復活します。また更新は止

  • 趣味のWebデザイン - CSS デザインにどこまでこだわるか

    私が HTMLCSS の勉強を勧めるのは、製作者が楽をできるからです。他に理由はない、といってもいい。 CSS デザインを「簡単」というと、疑問の声が上がるでしょう。たしかに、あれやこれや多くを望むと、面倒くさいところがドンドン出てきます。クロスブラウザとか。"いろは"の先の CSS という連載記事は、Strict+CSS というデザイン手法の理想を盾にして、製作者の重荷を減らしていく試みです。 「テキストの内容に基づくマークアップ」と「HTML の各要素を装飾するためのスタイルシート」という基に忠実であろうとする限り、過剰な装飾どころか「段組」さえ否定されます。凝ったデザイン自体を主要な閲覧者層(PC 向け視覚系ブラウザ利用者)に対する「妥協の産物」と捉えることにより、「できないことはやらない」「無理はしない(方がよい)」という結論を導くことができます。 当サイトが「趣味のWeb

  • テーブルレイアウト排斥の根拠薄弱について

    海外事情に詳しいウェブデザイン情報発信サイト MinuteDesign(閉鎖)は、幅固定推進派として知られています。 じつは海外でスタイルシートによるデザイン制御が主流となりつつあるのは、幅固定(px 指定などにより横スクロールバーを出してでもデザインの崩れを回避する手法)をアリとしたからです。海外では文字サイズだって必要とあらば固定(これも px 指定)を躊躇しませんし、小さな文字の利用も常態化しています。ぜひ主要ポータルの脱テーブル状況からリンク先をご確認ください。 私は"いろは"の先の CSS 第8回で「テーブルレイアウトも絶対にダメとはいえない」という話を書きました。アメリカではテーブルは窓から投げ捨てろといった言説が主流派となりつつあり、Goodbye, Tablesではテーブル使いのデザイナーは、次第に下層階級に属する人間として見なされるようになるだろうなんて脅し文句が出ている

  • 無断リンク禁止派と闘う理由を問い直す

    1.主張 「無断リンク禁止」という主張をことさらに批判し、あるいは嘲笑するような記事は世の中に少なくないのだが、私が少し奇妙に感じるのは、「リンクは自由にしてよい」と主張する側が、あまりにも「当然にこの主張は正しく、法的にも理がある」と自信満々であることだ。いや、彼らの主張自体が全くの誤りであるとは、私も思わない。なるほど、リンクする権利は広く認められ、法的にも保障されているのであろう。しかしそれならば、粛々とリンクすればよいのではないだろうか。 たまたま現在、法律で認められている行為について、「禁止すべきだ」と発言し、その意図を実現するべく行動を起こすことは、自由主義国である日において、基的には認められる。よって「リンク禁止」を掲げることは自由だし、「無断リンク」を糾弾することもまた自由である。 もちろん、当人がどういおうと、何を考えていようと、法は無断でのリンクを認めるのだから、リ

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