「命」は主張はしません。ありません。「意識そのもので幸福」と言えます。 形を持たされた私達は自己主張をします。・・・・・ 「命、よろこんでいる」と表現していることは、 言葉で本質そのものに気付き易くなると気付いたからです。 そう表現しても、しなくても、言葉にして言っても、言わなくても、 「命、よろこんでる」ことは、関係なく変わり有りません。 しかし、 形を持たされた私達は、意識しないとそれに気付けないようです。 命、よろこんでいる
「命」は主張はしません。ありません。「意識そのもので幸福」と言えます。 形を持たされた私達は自己主張をします。・・・・・ 「命、よろこんでいる」と表現していることは、 言葉で本質そのものに気付き易くなると気付いたからです。 そう表現しても、しなくても、言葉にして言っても、言わなくても、 「命、よろこんでる」ことは、関係なく変わり有りません。 しかし、 形を持たされた私達は、意識しないとそれに気付けないようです。 命、よろこんでいる
常識を超える。 私達が今見ている世界は、「命」から見れば、ほんの一部に過ぎません。 つまり、見える世界は見えない世界より、はるかに少ないと言えます。 見える世界の私サイドの見方が常識になっていますが、 見えない世界の「命」サイドの見方が常識になれば、私達の人生観は全く変わります。 「命」は「皆が同じ幸福」が常識です。 私サイドの幸福は皆それぞれ違いが生じる幸福です。それは満足の範疇と言えます。 命、よろこんでる
自衛隊が軍隊になってもならなくても、 それによって平和が確立されることはありません。 これを議論する前に、 幸福を追求する権利の幸福が何かを議論することをお勧めします。 自然や宇宙、動植物の生命や寿命、等の原因である「命」、 聖書や仏典もできていなかった以前、 勿論、私達の先祖も存在していなかった以前からの「命」、 全ての原因であり、何時もよろこんでいる意思で、「生きている命」が「幸福」です。 「命、よろこんでいる」「幸福」に気付けば、平和はそこに確立しています。 気付かないと言うことは、脳が現象に騙されていると言えるのではないでしょうか。 命、よろこんでいる
私達は、自転を実感していますか。・・・? 自転車や自動車、電車、等ですと、自分も動いているのを感じます。 しかし、地球は対象がないので目には見えません。 この見えないと言うことが、 地球と一緒に動いている実感がないと言う思い込みになっています。 それって、明らかに脳が騙されていると言えるのではないでしょうか。 脳の錯覚と言えます。 つまり、脳が騙されていることが、 自転を実感できないという思い込みになっているようです。 私達は、見えなくても、感じなくても、推理できる能力を持ち合わせているのですが、 「命」を寿命と理解し、満足と幸福を混同し、それで納得しているのでしょう。 命、よろこんでいる 命、よろこんでいる
自国をどう守るかと言う発想の平和では、力や武力が平和の条件となってしまいます。 これでは地球上の平和は実現不可能となります。 自国の平和だけを望むのは自己中心的であり、 考え方の違いを無視しているのと同じで自己満足そのものと言えます。 平和について全く無知であると言うことかもしれません。 私達が満足を追求して平和を築こうとすれば、 満足を追求するあまり自分自身を抑制することが困難となってしまいます。 満足の概念を、「命よろこんでいる」絶対幸福に転換することができれば、平和の実現を可能にしていきます。 たとえ考え方や宗教観、等、違っていても、 私達が「命、よろこんでいる」絶対幸福であることには変わりありません。 「命」が変化して存在している私達は「命、よろこんでいる」絶対幸福であると言うことです。 「命」は全ての土台と言うことです。 命、よろこんでいる
私達は満足にこだわり過ぎる余り、お互い、競争心に煽られ、争いや混乱、疑惑や悩み、心配、等、が尽きません。 この状態では助け合うことなど無理なようです。 「生きている命」は「幸福」であり、平和そのものであり、何時もよろこんでいる全ての根源です。 私達は「生きている命」によって生かされていると言えます。 その「生きている命」が変化して私達が存在しているとも言えます。 「生きている命」を「命、よろこんでいる」と意識して確認することによって、「生きている命」を明確にすることが可能になります。 「命、よろこんでいる」に気付けば、好き勝手していても自然と助け合うことが当たり前の状態となっています。 命、よろこんでいる
同じ「命」が全ての存在の原因であれば、存在しているものの考え方の違いにこだわらなくて済むと言えます。 宗教間の争いもなくなります。 それ以上に、その違いを楽しめる面白さが発生します。 「命」が全く同一と認識できれば、お互いは同じ「命」で「生きている」と考えることができ、お互いの違いがもっと深く理解し合えることになります。 誰もがそのように思えれば世界は広がります。 私達一人一人が、自分を中心に考える物差しにこだわり過ぎていることに気付くことができれば、どんなにかこの世が楽になることでしょう。 同じ「命」で「生きている」ことが「幸福」です。 それを「命、よろこんでいる」と表現しています。 命、よろこんでいる
一人一人の違った正義感が矛盾を生み出す原因になっているのですが・・・ その人なりに一生懸命に生きる努力に気を取られてしまって、どれほどの矛盾が自分か ら創り出されているのか、考える時間が持てないでいます。 「命、よろこんでいる」ことが本当に理解できた社会であれば、お互いが助け合い、利益を分け合うことが楽にできます。 なぜなら、全ての人が共に同じ「幸福」である「命、よろこんでいる」ですから、仕事も勉強も、遊びと同じ感覚になっています。 さらに、私達はお互いに好かれ合っていることが常識になっています。 しかし、「命、よろこんでいる」ことが理解されないと、それは単なる理想論になるか、一種の宗教と混同してしまうでしょう。・・・ なぜなら、相対の世界を土台にしている考えで、影も形もない「命」という全く無の何かを、少しでも理解できるようにと無理やりに「命、よろこんでいる」という言葉にすると、その言葉と
ほとんどの人の前提が戦争になっていることがわかっているのでしょうか。・・・ 満足を追求する社会では自己中心、利己的な世の中は続きます。 「幸福」が全ての土台にあるにもかかわらず、現象に左右されて自己主張の競争をしているに過ぎないのですが、その主張の違いを認め合うことができず大問題になっていると言うことです。 「幸福」とは何か、「平和」とは何か、どうすれば戦争はなくなるのか、等の問題を考える方が重要なはずと思うのですが如何なものでしょうか。・・・ 我が国の憲法第9条を世界の国々の憲法に組み込むことができれば戦争がなくなる足ががりになると思うのですが。・・・ 私達は「命、よろこんでいる」「幸福」に気付く能力を持ち合わせています。 そう意識するだけのことですが意識しなければその能力は働かないことが悩ましいですね。 「命、よろこんでいる」は「幸福」「平和」が前提です。 結果、違いを認め合うことが当
あらゆる現象に素早く反応するのは我々自身のはずですが、 実は我々の脳そのものです。 正確に言えば、脳が機能しているのですが、脳が自在に働いている感覚はありません。 ただ、自分は少しでもより良く生きたいと言うことを目指している自己意識がそこに働いています。 悲しみ、悩み、励んだり、楽しんでいる、等、 全ての時を自分が体験していると思っています。 それこそが、自分が「生きている」ものだと、 疑うことなく自己の存在を主張しています。 寝ている時に見ている夢の主人公も、自分と言う意識が働いています。 しかし、全く自分が意識されない時間は、 自己は消えているのかどうかさえも判りません。 例えば、全身麻酔がかけられている間、 自己意識はどうなっているのか完全に解らなくなります。 詰まる所、脳の機能によって自己の存在の有無が決まるようです。 私達は脳と自己との関係を区別して考えた事もないかもしれません。
脳は現象に反応していくことで、自分が生きていると言う感覚や満足が土台の自己意識が起きていきます。 そこで見える、感じる世界を私達は現実と思っています。 と言うことで、私達は見えない、感じない世界に意識を向けるのは難しいと思い込んでいるようです。 その状態を当たり前にして、そこから常に物事を捉えていますので難しいと思ってしまうようです。 もともと何もなかった、無、空がスタート台だとすれば、「命、よろこんでいる」は当たり前と言えるのではないでしょうか。・・・ 脳がどのような考え方であっても、その気にならなくても、「命、よろこんでいる」「幸福」は、全ての人に同じなので、自分は「幸福」と意識出来るでしょう。 「命、よろこんでいる」と意識するのも脳を使います。 しかし、そうしないと脳は「命」を意識できないと言えます。 意識し続ければ脳は「幸福」の土台に気付く能力を持ち合わせています。 命、よろこんで
私達は満足することが幸福と思ってきた常識があります。 満足感を土台にした幸福感は人によって違うものです。 自分の幸福と他人の幸福の違いは、不幸のもとにもなります。 争いや戦争は、それぞれ自分の幸福と思っている満足を熱心に求めすぎた結果です。 「幸福」が争いや戦争を起こすことはないはずです。 「幸福」とは全ての人が「幸福」でなければ「幸福」とは言えないでしょう。 「命、よろこんでいる」「幸福」に気付き明確になれば、私達は「もともと幸福」で、そこに平和があると言うことが当たり前になります。 幸福と満足の区別ができ、違いが明確になれば、「命、よろこんでいる」「幸福」が明確になります。 命、よろこんでいる
平和を守ると言う言葉は、戦争が前提になっていると言えます。 平和とは守るとか、勝ち取るものではなく、すでにあるべきものです。 又、自国の安全でもありません。世界中が安全でなければなりません。 世界中の安全とは、全ての人々が生活の心配をしなくても済むシステムがあると言うことです。 同時に世界の人々が「幸福」であることを意味します。 前提が戦争の常識を「幸福」が前提の常識に気付く意識付けが必要です。 「幸福」に気付き、世界中の防衛費を世界中の人々の生活保障の為に使うことができるように頑張って欲しいものです。 何時もよろこんでいる自分「命、よろこんでいる」を意識できれば、結果、「幸福」が前提になっています。 命、よろこんでいる
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