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  • 北野天満宮  道真の怨霊 稲光が走り雷鳴がとどろく - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    平安時代中期の天暦元(947)年に創建された北野天満宮。 菅原道真(菅公)をご祭神とし、藤原氏によって大規模な社殿造営がなされました。 国宝に指定されている殿は、豊臣秀頼によって再建されたものです。 これは八棟造と呼ばれる様式で、拝殿と殿は一つの大きな屋根で覆われていて、中央に一段低くなった「石の間」が設けられています。 まるで寺院のように 北野天満宮は、菅原道真という「人」を「神」として祀った社であり、その、拝殿と殿を石の間でつなぎ一つの屋根で覆う建築形式は、死者を神として祀る、ある種特異な形式だといえます。 通常の神社の場合、鳥居を入り口とするのですが、ここ北野天満宮では、まるで寺院のように楼門と三光門が入り口となっています。 菅原道真という「人間」の怨霊を鎮魂するために「神」として祀ったので、人間を供養する寺院とも、神を祀る神社ともいえる特異な形式になったのでしょう。 このよう

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    A---chan
    A---chan 2020/11/26
  • 八坂神社  祇園の神様 出雲の女神と出会ってから - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    神仏分離令からまだ150年 神と仏は同じであると考える神仏習合。それは、今日ではあまり理解されていません。 ですが、明治維新で神仏分離令が出されるまで、奈良時代から江戸時代まで1200年の間、ごく自然に日人に受け入れられていたのです。 日人が大切にした神々の姿を拝借した外来宗教の仏教は、日で半ば当然のように浸透しました。 一方で、神道もまた仏教と一体化することで発展を遂げてきた部分もあるのでしょう。 じつは神社の社殿が建てられるようになったのは、日に仏教が伝わってからではないのか、という説があります。 それまでは、巨木や奇岩、山そのものなどを、神が宿る聖なる場所として祀る宗教的儀式が行われていたのです。 これに対して仏教は、仏像があり、それを安置する建物があり、さらに経典も用意されています。 崇拝の対象をはっきりと目にとらえられることの出来る形を持った宗教なのです。 そんな仏教の形

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    A---chan
    A---chan 2020/11/13
  • 室町幕府将軍 空白の3年 暗躍する松永久秀 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    松永久秀「所司代」 天文18(1549)年、阿波国の戦国大名・三好 長慶(みよし ながよし)は、将軍・足利義晴を京都より追放しました。 実質的に洛中の支配権を握っていた長慶でしたが、初期の頃の権限内容については史料がほとんど残っていないため、よくわかりません。 ただ、家臣である松永久秀を「所司代」に任命したことから、洛中の治安権が中心であったのではと推測されています。 天文22年ころから永禄3(1560)年にかけて、その支配力は揺るぎないものへと強化されていき、その永禄3年には、長慶一族と松永久秀に対する朝廷からの贈位任官が急速に進められました。 ですが、この頃、三好長慶は京ではなく摂津・芥川城に住居し、必要に応じて入洛していました。 京都支配の実権をにぎりながらも、完全な意味での政権の支配者には、なり切っていなかったのです。 長慶が選んだ場所 長慶には強い軍事力の基盤がありました。それは

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    A---chan 2020/09/27
  • 元禄の京に光琳あり  尾形家 不肖の3兄弟 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    雁金屋の3兄弟 徳川家の娘に生まれ皇室に入内した東福門院和子。 朝廷と幕府の平和の架け橋となったその偉大な皇后は、延宝6(1678)年、帰らぬ人となりました。 彼女に最もひいきにされていた幕府御用達・老舗呉服商の雁金屋(かりがねや)の商運は、これを機に傾きはじめます。 もちろん、大富豪・雁金屋の商いすべてが崩れ去るわけではありませんが、もっとも売り上げシェアを確保していた部分がなくなったという現実は、皆にとって精神的なダメージが大き過ぎたのでしょう。 経営者である尾形宗謙は、もともと丈夫な体ではなく床に就くことが多い人でしたが、隠居は出来ませんでした。 なぜなら宗謙の3人の息子たちは、揃いもそろって未熟で頼りない者ばかりだったからです。 長男は藤三郎、次男は市丞(光琳)、三男は權平(乾山)のだんご3兄弟です。 放蕩息子たちの生きざま 長男の藤三郎は3人のなかでも特に色男で、とにかくしゃべく

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    A---chan 2020/09/17
  • 大坂城が落城した そのあとの京都の話 反骨の突っ張りたち - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    豊臣恩顧たちの選択 元和元(1615)年5月7日、難攻不落と称された豊臣・大坂城は、徳川軍からの猛攻撃を受けて、ついに落城しました。 翌8日、人質として豊臣秀頼に嫁いでいた家康の孫娘・千姫からの助命嘆願も受け入れられず、ついに、秀頼、淀殿ともに自害し帰らぬ人となったのです。 千姫の救出を見届けた家康が二条城に凱旋したので、あいついで、諸将たちも入京することになります。 二条城内はすぐに、戦勝祝いに訪れた公武関係の要人たちで溢れかえっために、家康は秀忠と協議して対応にあたりました。 そして、豊臣恩顧といわれた諸将たちは、この後、あっさりと徳川家に従順していきます。 この先の家族たちの将来も考えていたのでしょう、もちろん武士としても、それなりに様々な決意があったはずです。 秀吉のであった北政所、つまり高台院が徳川側についたのも、彼らの気休めにも口実にもなったのかも知れません。 ただ、諸将た

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    A---chan 2020/08/18
  • 激動の時代と寺社復興  信長・秀吉・家康は一括りに捉えるのが歴史を理解するコツ - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    激動の50年 永禄11(1568)年に織田信長が入京してから、元和元(1615)年の豊臣家滅亡までの僅か50年に満たない日月。 この短いながらも激動の時代は、近世封建制度の成立と、京都の新たな都市計画の始まりでした。 中世の終わりから仏教は貴族から庶民のものへと脱皮していき、旧仏教系の寺院も新仏教系の寺も、新しい時代への対応を模索しながら堂宇の復興に努めることになります。 京都の仏教界は豊臣政権の成立とともに、信長時代から一転した親和的な復興援助を与えられていました。 ただ、それには寺領検地という代償も伴なっていたのです。 寺領検地は、信長の時代から洛中の寺院に対して出されていた令でしたが、秀吉政権によって格化されました。 洛中のすべての土地の所有権は、原則的にはもともと皇室・公卿などにあります。 これが、何世紀にもわたる長い歳月のなか、この所有主から直接または間接的に、寄進・買い入れ・

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    A---chan 2020/08/11
  • 近世の覇者と仏法 織田信長包囲網 暗闇の中のひとすじの光  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    京都に出現した近世的覇者 王城を抱く京都が堅持した古くからくる伝統や、そこに住む人々の生活から育った風習。 新しい街の支配者である織田信長は、これらを一切認めませんでした。 永禄11(1568)年、中世末のカオスの世界から生まれた近世的覇者は、京都に出現したのです。 当時の日人としては珍しい存在なのですが、信長は来世の存在を信じていませんでした。 来世の概念を否定し罪の意識も持たない信長は、仏教からもキリスト教からも無縁な存在であり、無縁な人生を選んでいたのです。 それは同時に、偶像すなわち仏像や神像を大切にする社寺の存在価値が、否定し去られたことになります。 朝廷や公家、古くからの大社・名刹、都に根強く教線を伸ばした新仏教、町衆など、独特の宗教的雰囲気になじんできた当時の京都の人々にとって、おそらく、信長は歓迎すべき相手ではなかったのでしょう。 そして、信長のこの宗教観によって、やがて

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    A---chan
    A---chan 2020/08/04
  • もうひとつの二条城  織田信長の入京 あの鐘を鳴らすのはあなた  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    信長が築造した二条城 二条城といえば、徳川家康によって築造された現在も遺る「京之城」をいいますが、京都にはもうひとつの「二条城」がそれよりずっと以前から存在していました。 それは、足利幕府最後の将軍・足利義昭のために織田信長が築造したかなり大規模な城郭です。 永禄12(1569)年、内裏(御所)のすぐとなりにあった兄・義輝の邸宅あとに、義昭の住居として信長が再建工事を始めたのです。 現在の丸太町烏丸の北西一角の場所なのに、なぜ二条城と呼ばれていたのかというと、おそらく、平安京の二条坊あたりの場所だったからなのでしょう。 百数十体の石仏や、年号が刻まれている板碑・五輪塔、瓦、緑釉など、この場所でかなりの遺跡が発掘されていて、もうひとつの二条城の正確な位置を知るうえで、大変貴重な手がかりとなりました。 京童たちの不安 永禄11(1568)年、これまで尾張の一戦国大名にすぎなかった織田信長は、6

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    A---chan 2020/07/30
  • 三十三間堂  千手観音像に守られた奇跡のお寺 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    750年前から守られてきたお堂 長さ125mの仏殿の中に、1001体の千手観音像が整然と並ぶ、国宝、蓮華王院・三十三間堂。それは、奇跡の宗教建築です。 後白河院が、当時住んでいたという法住寺殿の中に、長寛2(1164)年に建立しました。 そして、これを全力でサポートしたのが平家総帥・平清盛です。 1001体という黄金の観音の恵みを与えられることで、人々が救われる浄土を、後白河院と清盛はこの世に作ろうとしたのです。 千手観音の正式な名称は十一面千手千眼観世音菩薩といいます。つまり、千の眼をもって、世の人の苦難を見、千の手をもって、世の人の苦難を救う仏です。 人々が救いからもれてはいけないので、なるべく多くの手、すなわち千の手を持っているのです。 観音は33の姿に変身して現れ人々を救います。そのゆかりからお堂の内陣の柱の間数が33あり、三十三間堂と呼ばれるようになりました。 内部は極彩色の文様

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    A---chan
    A---chan 2020/07/28
  • 平等院  鳳凰堂  龍神に守られた平安時代の象徴 - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    建物から飛び出している尾廊 宇治川のほとりから朝日が昇るとき、その眩い光が池の水面に当たり、反射してお堂の中を照らしています。 さざなみのようにキラキラ揺れる光を受けた仏像は、まるで胸のあたりで呼吸しているかのよう。 生み出された自然の光によって、阿弥陀如来坐像はまるで生命が宿っているように見えるのです。 そんな平等院・鳳凰堂は、宇治川の近く、この世のものとは思えない美しい極楽浄土を表現しています。 極楽の世界から舞い降りてきた、仁智があり、生枝を折らない鳳凰という霊鳥の姿に見立てられた鳳凰堂。 尾羽根のような尾廊が建物から飛び出しているさまは、今にも飛び上がらんとする躍動感に満ちています。 龍神に守られた鳳凰堂 永承7(1052)年、関白・藤原頼道によって平等院は創建されました。 それは金堂・五重塔・三重塔・釣殿・宝蔵・鳳凰堂などが立ち並ぶ巨大伽藍で形成されています。 古来から平等院のあ

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    A---chan 2020/07/26
  • 三条大橋  『知らん顔』した街並み  - こうへいブログ 京都案内と文章研究について  

    東海道中膝栗毛の舞台となった華やかな一面とはうらはらに、三条大橋には数々の悲話が伝わります。 豊臣秀次の・側室侍女とその幼児たちが秀吉によって首うちにされたり、橋のすぐ近くの池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士が新撰組に襲撃されたりした、やりきれない痛ましさを感じる場所でもあったのです。 300年の間 変わらぬ石柱 京都三大橋と呼ばれる鴨川に架かる橋は、三条大橋・四条大橋・五条大橋の三つですが、古くからの鎌倉との往来にあたって、三条通りに架かる橋は京都側の中枢的な出入口でした。 初めて格的な三条大橋を架けたのは豊臣秀吉で、それまでは洪水が起こるたびに簡単に流されていたのです。 天正18(1590)年、秀吉から工事奉行に任命された増田長盛が、川床に石柱63を立て、全長100メートル、幅7メートルの強固な大橋を完成させます。 欄干を豪華な紫銅の擬宝珠(ぎぼし)で飾りつけた、都の玄関口にふさ

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    A---chan 2020/06/11
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