まずローマカトリックと東方教会の分裂はローマ帝国分裂と軌を同じくしたものではありません。偶像崇拝をイスラム教から非難されたことから、726年東ローマ皇帝レオン三世が「聖像禁止令」を出したことが分裂のきっかけでありその後も関係は続いていたものの1054年にお互いに相手を破門しあって完全に分離したのです。 そのいきさつを簡単に述べればローマ帝国とともに広がった初期キリスト教には五本山と言って中心的な教会が5つありました。この中で3つの本山(アンティオキア・イェルサレム・アレキサンドリア)がイスラムの領域となったことから旧ローマ帝国内に残った西のローマ教会と東のコンスタンティノープル教会が有力となり互いに首座権を争いました。基本的にはローマ帝国では皇帝教皇主義であり、ローマ皇帝が教皇を兼ねています。つまりコンスタンティノープル教会はビザンツ(東ローマ)帝国の首都の教会であり、西ローマが滅んでから