「前向きな諦観」の一言で自作を説明したDikePはやっぱ格好いい。 工画堂スタジオ シンフォニック=レイン 普及版 出版社/メーカー: 工画堂スタジオ発売日: 2007/11/22メディア: DVD購入: 5人 クリック: 104回この商品を含むブログ (28件) を見る
少なくともね、アザラシの生態観察の文章読んで、アザラシについての知識を増やすのは、現代文の授業じゃないわよね。 そこにあるのは素材でしょう。素材を通して、何を伝えたいのか。読むのはそのためだもの。 <<時と人>>についてのプロットは三つ持っていた。まず書くつもりだったのが、『ターン』。次がこの『スキップ』である。実際の取り掛かりは逆になった。遅々として進まず、最初にお話をいただいてから、何と入学した小学生が卒業するだけの時間が経ち、その間にケン・グリムウッドの傑作『リプレイ』が出てしまった。となれば、題がつき過ぎる。しかし、いうまでもないことながら、命名は作者にとって必然のものである。『スキップ』は<<早送り>>であるとともに、主人公の、仮に歯を食いしばろうと、失われることのない軽やかな足取りに外ならない。動かせない。了とされたい。 スキップ (新潮文庫) 作者: 北村薫出版社/メーカー:
Et in Arcadia ego. /Et ego in Arcadia. arcadiaにすら、私はいる。/私もまた、arcadiaにかつていた。 最初にEt in Arcadia egoというラテン語があった。その意味は「アルカディアにもまた、私はいる」でしか、ラテン語の文法上ありえない。etはその直後の単語を強め、<〜もまた、〜ですら>の意味を持つ。egoのうしろには、sumが省略されている。つまりこのことばを発している人物は「骸骨」すなわち「死」そのもので、このうえなく平和で幸福なアルカディアの地にもまた、私、「死」はいるのだ、つまりもっと単純化すれば、元来<死を忘れるな>memento moriの一表現だったのである。 ところがある絵をきっかけにして、意味が誤ってとられてしまうようになった。その絵ではもはや「私」は「死」そのものではなく「死者」である。死者は「私もまたかつて、お
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く