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戦争に関するDOISHIGERUのブックマーク (11)

  • 『兵士のためのレイプ施設つくったのは日本とナチスだけ-レイプ犯の理屈で慰安婦容認する橋下大阪市長』

    すくらむ国家公務員一般労働組合(国公一般)の仲間のブログ★国公一般は正規でも非正規でも、ひとりでも入れるユニオンです。 橋下徹大阪市長(日維新の会代表)による、日軍「慰安婦」制度は「軍隊にとって必要だった」、「日だけでなくいろんな国で慰安婦制度を活用してきた」という発言と、石原慎太郎日維新の会代表の「軍と売春はつきもの」との発言だけを聞くと、世界各国の軍隊にも「慰安婦」制度があったのだから、日だけが「レイプ国家」と批判されるのは、おかしいという橋下氏の言い分が正しいように思ってしまいかねません。 先日、テレビ朝日「朝まで生テレビ」の「激論!ネット世代が日を変える?!」を見ていたら、そこでも侵略戦争は世界各国がやっていたのだから日の侵略戦争だけが批判されるのはおかしいというような流れの発言が見受けられました。 そもそも、レイプ犯が「他の奴もレイプしてるのだから俺だけ批判されるの

  • 戦争を終わらせるための戦争 - Wikipedia

    ウェルズの The War That Will End War (1914年) アメリカ合衆国大統領ウィルソン:この言葉を用いた人物としてしばしば取り上げられる 「戦争を終わらせるための戦争」(せんそうをおわらせるためのせんそう、英語: The war to end war)は、第一次世界大戦を表すために使われた言葉。「すべての戦争を終わらせるための戦争」(英語: The war to end all wars[1])とも呼ばれる。もともとは理想主義的な言葉であるが、現在では軽蔑的に使われている[2]。 起源[編集] 1914年8月、第一次大戦の開戦直後、イギリスの作家で社会評論家のハーバート・ジョージ・ウェルズはロンドンの新聞紙に幾つかの記事を発表し、これは後にThe War That Will End War『戦争を終わらせる戦争』という題でになった[3][4]。ウェルズは戦争を起こ

    戦争を終わらせるための戦争 - Wikipedia
  • ミャンマー現地情報~ヤンゴンナウ

  • 日本軍 慰安婦について - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

    軍はなぜ慰安所を必要としたか 2 日軍が慰安所を必要とした理由 日軍が慰安所を必要とした理由は四つある。第一は、占領地で日軍人による強姦事件が多発したことであった。広範囲に慰安所を設置するきっかけとなったのは、一九三七年一二月の南京大虐殺と関係がある。三七年八月から一〇月にかけての激しい上海攻防戦のあと、日軍は南京にむけて侵攻したが、一〇月から一二月にかけて、日軍の進撃ルートとなった長江(揚子江)一帯では、日軍人による虐殺・強姦・掠奪・放火などのきわめて多くの不法行為がおこなわれた。中でも強姦は弁明不能な違法行為であり、盗賊でも強姦はあまりしないといわれる倫理観をもつ中国人の間に激しい憤激をよんだ。このような事態にあわてた日軍は軍慰安所の設置にのりだしたのである。中支那方面軍は、この前後に慰安施設をつくるよう指示している。 一九三八年六月、数十万の兵員をもつ北支那方面軍の

    日本軍 慰安婦について - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
  • ワインバーグ博士とありえたかもしれないもうひとつの原発の物語(1)〜『WIRED』VOL.3より

  • 吉村寿人 - Wikipedia

    吉村 寿人(よしむら ひさと、1907年2月9日[1] - 1990年11月29日[2])は、日の医学者、生理学者。ヒトの環境適応に関する研究[3][4]と蛋白栄養に関する研究[4]をした。日生気象学会会長[5]、日栄養糧学会会長[6]等歴任。 京都大学の正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)の元で学生時代を送り、卒業後引き続き助手、講師を務める[4][6]。その後、正路に命じられて満洲の731部隊に赴任し、凍傷を防ぐための研究に従事した[7][3](昭和13年から)[8](吉村を含め京都大学から8名の若手教官が派遣された)[9]。軍での身分は陸軍技師[10]。 戦後京都大学に戻った後、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後京都府立医科大学の教授となり、同大学の学長を務めた[4]。 国際生物学事業(英語版)でヒ

    吉村寿人 - Wikipedia
  • 元731部隊の研究者への科学者による批判-上平恒『水とはなにか』感想 - わが忘れなば

    以前、731部隊について勉強したことをまとめて、一部ブログ記事にしたが、防疫給水部が設立されるまでの経緯を書いたところで力尽きてしまった。気にはなっていいるのだが、常石敬一の『医学者たちの組織犯罪ー関東軍第七三一部隊』(朝日文庫、1999、親は朝日新聞社、1994)などを図書館に返してしまったのと、ちょっと長いブログ記事を書くほどの気力がわかないのですぐには取りかかれない。 http://wagawasurenaba.hatenablog.com/entry/2012/09/15/150259 今回は、僕が731部隊のディテールを書いた記述に初めて接したを紹介したい。 学生時代に熱力学の講義で教授にすすめられて、上平恒「水とはなにか-ミクロに見たそのふるまい」(講談社ブルーバックス、1977)というを読んだ。このは、裏表紙に「分子レベルから解き明かす生命と水の関係」とあり、カヴァー

  • ニューギニアで旧日本兵が行った残虐

    太平洋戦争中、日兵の90%以上が亡くなり、飢餓地獄といわれたニューギニア。だが、現地の人たちの多数が犠牲になったこと、まったくといっていいほど知られてこなかった。戦後半世紀以上たって、被害者人や遺族が語り始めた戦争被害の記憶は、信じられないほど悲惨だった。 「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」 バラス・ブカヒンさん(70代半ば・男性)は一点を見つめ、悲痛な面持ちで語った。足元には母親がゆでられたという黒い飯ごうが置かれている。彼の周りを数十人の村民が囲み、聞き入っていた。 バラスさんが証言したのは、東部パプアニューギニアのセピック川流域のマラハオ村での集会だった。パプアの山間部の人たちは、半世紀前までカレンダーを気にしな

  • ビルマを選んだ元日本兵

    北村作之蒸さん、七七歳。ヤンゴン在中。 「戦争に負けたことが恥ずかしくて、日に帰らなかったのです」 そう語った後、沈黙が訪れた。彼の目は遠くを見つめている。外では子供たちの遊ぶ声がしていた。 北村さんは大正八年七月四日、新潟県新井市で生まれる。一九三九年、二十歳の時に陸軍に召集される。ラバウル、ガナルカナル、マニラと転戦し、一九四四年一月一二日にタイから陸路でビルマ南部のモールメインに入る。 彼は二八軍第二(勇)師団の重砲隊に所属し、北東部の中国国境付近で中国蒋介石軍と戦った。しかし、戦況は不利で退却となる。戦いでは補給が乏しく、料も村での現地調達が多かったという。 「村の人からは料を分けてもらうなどして親切にされました」 と彼は語る。上座部仏教がこの国の文化を形作っていると言ってもいいここビルマの人たちの多くは、戦争を憎んでも人を憎むといういうことをしなかった。それに、同じ東洋人で

  • http://www.news.janjan.jp/living/0910/0909280877/1.php

  • 戦場と一兵士 -上海戦線-

    この手記は、私の知人、桜田薫氏が書かれたものです。氏の言によれば、 「一兵卒として戦場に在った時の細かい事実を書こうと思います。 当時の世界情勢とか、日の方針や立場とか、戦争目的といった大きな事柄はもちろん、その時戦場に在っての攻撃目標すらわかっていません。ただ自分一個の身の回りに起こった事だけを書くにすぎません。遭遇した事態に対する意味の把握も解釈も無いのです。」 とのこと。実際、彼の目に映った事柄とそれに対して氏の感じたことだけが淡々と綴られており、そのリアリティーゆえに、却って読者に深い感銘を与える作品に仕上がっていると思います。氏の手記に感動し、また、この手記が非常に貴重な記録・資料でもあることから、より多くの方々にお読み頂きたく、氏にお願いして投稿させて頂いた次第です。 なお、投稿に当たって校正を行いました。できる限り原文に忠実であるよう努めましたが、誤字・脱字の訂正、改行部位

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