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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/aureliano (2)

  • 人はなぜ「レッテル」を貼ってしまうのか? - ハックルベリーに会いに行く

    今夜8時、NHK教育テレビの番組「ハートネットTV」に出演するのだけれど、収録では時間がなくて言えなかったことを、ここに書こうと思う。NHK福祉ポータル ハートネット VTRに登場した有馬圭太朗くんは、なかなか面白い子だった。何が面白いかというと、一つには詩がとても上手だということ。もう一つは、公共心があるということだ。圭太朗くんは、明るく気さくな少年で、周囲の人と仲良くするのがとても得意だった。それだけではない。場にとけ込むのがとても上手いのだ。例えば、圭太朗くんはよく両親が経営する美容院に遊びいくらしいのだが、そこへ行った際には、自ら掃除を買って出ていた。また、それが終わるとくだけた調子で「まだ何か他に手伝うことはないの?」と聞いている。そういうふうに、仕事を買って出ることで自分の居場所を上手い具合に作り出しているのである。そのうえで、圭太朗くんは店員さんやお客さんに気さくに話しかけて

    Drunkar
    Drunkar 2012/07/21
    というかまあそれが「意識」ってものでしょう
  • ぼくは結局、認められないだろう - ハックルベリーに会いに行く

    ぼくには、いつだって「世間からは認められないだろう」という思いがある。それは今だってある。ドラッカーは「顧客からスタートしろ」と言った。それは分かる。芸術でも何でも、他者に認められて初めて価値がある。しかしながら、こと芸術に限っていえば、そこに一つだけ問題がある。というのは、すぐれた芸術――後世に残るような芸術というのは、えてして「同時代人には認められない」という現象があるのだ。 その例には枚挙にいとまがない。ソクラテス、ゴッホ、カフカ、宮沢賢治。中でも、最も象徴的な例として、セザンヌを挙げることができる。セザンヌは、絵画というものを突き詰めていく中で、やがて「絵の面白さとは写実性にではなく、ある種の心象風景のように、ちょっと歪んだものの中にこそ宿る」と考え、あえて遠近法に則らない描き方で絵を描いた。遠くのものを大きく描き、手前のものを小さく描いたのだ。すると、その評価は散々なものだった。

    Drunkar
    Drunkar 2012/06/24
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