ブックマーク / emmaus.hatenablog.jp (27)

  • 木は語らない・木は語っている - emmaus.hatenablog.jp

    http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20120322#c の続きだが、こちらから三上さんへのコメントにしてみた。 - 三上さん、こんばんは。 一方で<木は語らない>というのは、私には<木は語っている>ということを他方で想起することです。実にこの二つの命題は矛盾することなく等号しています。私の勤める精神病棟の人々(注*1)も同じように皆語らない人々だからです。 それはそうと…これは木の話です。「見るとはかすかに愛することだ」と述べたのは清岡卓行ですが、写真の直視がわれわれが現在持っている認識以前のものに誘うのは三上さんの一連の木の写真で明らかです。木がわれわれの言葉以前のもの(言葉以外かも)で成り立っているからです。絶え間なく見ることは聴くことです。この傾聴は、こちらの認識でなく向こうの成り立ちを受け入れ賛成することだと思えます。われわれが言葉の通じぬ異郷の地に

    木は語らない・木は語っている - emmaus.hatenablog.jp
    Emmaus
    Emmaus 2018/11/18
    語らないことと語ることは同意語である。
  • 幸福書房の店じまい - Emmausブログ

    いいを見つけた。原研哉著「白百」。内容は色の白に関する心象等々。 このは私鉄沿線の小さな屋さん、代々木上原の幸福書房で見つけた。ちょくちょく行く店だった。もさることながら、ここの店の魅力は仕入れが一般の取次システムだけに頼らず独自仕入れをしていることで、ここならではの建築やデザイン系の書籍が充実していること、他の分野のも大型書店やネットにはないぼくの気を引く品揃えの面白いやステキなに出会うことであった。 「あった」と過去形なのは、実はこの幸福書房がこの2月に事もあろうに閉店廃業するからだ。 店主からこれを聞いた時は言葉に詰まってしまった。屋号の通りのたくさんの「幸い」にありがとうには変わりがないのだが、ここはここだけの他にない空間であり、訪れたぼくらの好奇心や創造力をかきたてる特別なところだったわけだった。 空間や場は時間も伴う。つまるところ、この先に他に代わる「幸い」はなく

    幸福書房の店じまい - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2018/01/25
  • もの言わぬ花のような木のような方たちと - Emmausブログ

    理想と現実 - 記憶の彼方へに応えて くしくも、わたくしもネットにはまったく無縁の人びとのことを思っていた。その方たちとは、わたくしの仕事の終末医療でベットで横になったままの、「時」を語るよりも「時」に居合わすだけの、もの言わぬ花のような木のような方たちだ。わたくしはマリオ・ジャコメッリのような表現者の立場にはないが、花の木の方々の最後を看取り最終処置を施して微力ながらお見送りをしてきた。これは決して自己満足や美談ではない、肚からのわたしの自分屋という商号の仕事だ。 三上さん(id:elmikamino)、今の三上さんにとって花とはなんですか。木とはなんでしょうか。宜しかったらお聞かせください。

    もの言わぬ花のような木のような方たちと - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2012/05/16
    語らぬ人々
  • 見えない波動 - Emmausブログ

    夜勤の明けの日、身も心もすっからかんで、石のようにただ爆睡することがある。目覚めたら午前三時だ。昼に眠りに就いてまるまる15時間寝っぱなし。は夕の時もわたしをそのままに起こさなかったのだろう。 意識は中心にあってくり返しを嫌う。まったくだ、言葉なんかおぼえるんじゃなかった。でどうするこの言葉の無用の莫迦さかげん。寺山修司が「一切は比喩である」と言った言葉が遠く近くに明滅する。やおら起きて水を呑む。いつも書きあぐねている夜がある。山弘の作品解説(14)「秋雨」 - mmpoloの日記の絵がわたしの横に消え去ることはなくじっと佇んでいる。 三上さん(id:elmikamino)のブログの写真がカラーからモノクロになっているのをお気づきだろうか。眼を凝らす。あの黒の向こうに赤の予感がある。ある書物のエンブレムに「人間の薄墨色の領域にあっては、黒は赤への通底路である。」というのがあった。色の

    見えない波動 - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2009/08/11
    見えない波動は三上さんが言うように「霊」か。09/08/11 襲(かさね)
  • 季節を渉る <理・reason> - Emmausブログ

    晴れすぎるほど晴れた一月も終わりの明るくなった峠の林道。少し日が長くなったこの季節に拠っていることを、光りの中で知る。春ののどかさは外から来たものだが、わたしたちの内から生じたと云っていい。 ジグザクしたトレッキングの途に、石の道標をいくつか越えると林の向こうに水位が下がっている池の水辺が迎えてくれた。飛び石が5つあった。何度も数えてその数に間違いはなく安らぎを感じた。何でもないことだった。見えるものを知ることは。そして見えないものをボクの内に収めた。知ることと分かることが一つとなって、かたちを観ることと観るかたちがボクの中を駆け巡る。もしこのようにして魂というものが幾分春の光の中で見えるならば、われわれの体と魂を分けることのありがたさがこの季節にあるのだ。あるいは、林の黒い土の微かな湯気に、もしも精神を感じるとしたら、それはボクら自身が孤独な内にも高慢さではなく、いかばかりかの「人間の誇

    季節を渉る <理・reason> - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2007/11/18
  • 横たえるキリスト - Emmausブログ

    忘れない内に書いておこう。 何時だったか・・・エックハルトの関連で 鈴木大拙師のを読んでいたら、キリストの十字架像と仏陀の涅槃像との象徴的な違いを指摘している所に目が留まった。 話は約めるがこうである。大拙師曰く・・・ 垂直性は行動・好戦性・排他性であり、水平性は平和・寛容性を意味するとある。 なるほどと思った。 それに因って・・・キリスト教は民主主義や普遍的な愛を標榜しながらも他者には排他的で威圧的な傾向がある。 さらに大拙師曰く・・・しかし仏教ではキリスト教のそれとは違って平面性が無関心かつ非活動を示唆し平和と静寂と安定を説く宗教であるとも述べている。 まあそんな結びで?マークがいっぱい。単純で素朴過ぎる二項対立。唖然として開いた口が塞がらぬ。揶揄するつもりはない。が自然に反駁する言葉もつらつら上って来るのだが終いには何だか理由もなく可笑しくなってきてしまった。それでよく覚えてないが

    横たえるキリスト - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2006/10/13
    イワユル・・・垂直性と水平性について
  • 死に縁取られた生 - Emmausブログ

    生と死 厳密には生者と死者について 生が死に縁取られているなら、また死も生に縁取られていると云っていいのではないか。輪廻だったろ循環ということではなく。生命というものの現実実体とまた人間の意志の関わりにおいて。 実はここのところkarposさんのブログで、<死者の語りについて>として「想い起こす」シリーズが継続中で、しばらく結論が見えるまで静観するつもりだった。おそらくこの「想い起こすこと」はあるいは生者と死者について語ることをさらに二重に想い起こすということだろうと推察する。 語る、ということは、 想い起こすという作業なしにはできないから 宗教経験を想い起こしていくと、 いのちと死のところまで、つき当たることになる。 想い起こす1 - 新生★KARPOS 想い起こす2 - 新生★KARPOS 想い起こす3 - 新生★KARPOS というのも、今年7月頃からKIYONOBUMIEさんが辻邦

    死に縁取られた生 - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2006/10/07
    継続中は力