ブックマーク / emmaus.hatenablog.jp (27)

  • 復帰が見えてきました - Emmausブログ

    退院から九日。再発より三週間。 リハビリは順調。 よかったら一度職場に出向いてみてはと、上司から声がかかりました。仕事復帰のための様子見もあるのでしょう。担当医からもO.K. で、さっき行ってきました。 ホーム長はじめ、みんな笑顔で迎えてくれました。 私も嬉しかったですが、みんなもニコニコ。 何よりよかったのはホームの利用者のお年寄り、 しばらく居ないのをわかっていたのでしょう。言葉より握手。あくしゅ! 来春五日から復帰予定となり、どうやらそのロードマップが整いました。 しかし、まだ急性期。一日一日。 これもひとえに、皆さんのおかげです。 職場を出ての帰り、思わず空を見上げました。 時は恵みであり、時は味方です。神さまに感謝いたします。

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    Emmaus
    Emmaus 2022/12/23
    復帰のロードマップが整う
  • 死者の書 - Emmausブログ

    初稿・死者の書 作者:折口 信夫国書刊行会Amazon この暑い時にこそ一冊のをじっくり読み返すのもいいだろう。「死者の書」。 「盆(盂蘭盆)とは、いつもの『私』から『ワタクシ』を取り去ることである」とある僧が話をしてくれた。なるほどだと悼むとはそういうことかと素直に思ったが、だったら何で年にたった一度だけかとも思った。逝った者の冥福を祈るのも然りだが、日々のワタクシに阿る事から離れるというならば、死と生を分つことなく、質的に死者と共に出来る「時間」「歴史」に常に与ることではないか。またその時間実体を掘り起こすことではないか?と思うだ。これを共にしないでどうボクらという生者は死者と全体を共有すると云うのだろうか。死は生に縁取りされまた死によって再び生は縁取りされ生と死は一体となり和解するのだろう。 というのも、人が人であるならば、その人ということは世であり、世は今に連なる歴史というもの

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  • 友よ - Emmausブログ

    佇んでつるべ落としに友といる 後一日で十月だ。すっかり日が沈むのも早くなった。親しかったともだちのことを思った。きっと元気だろうと。

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    Emmaus 2021/09/30
    つるべ落とし
  • 木綿以前の事 柳田國男 - Emmausブログ

    柳田國男、大正十三年の発表のもの。 木綿以前の事 (1955年) (角川文庫):角川書店 木綿以前の事 (岩波文庫):岩波文庫 木綿と瀬戸物への我々の内なる記憶。 季節はもうすぐ五月。 洗い晒しの白の綿のワイシャツ。・・・。薫風。 木綿のシャツの風合いが快い季節になった。ボクの首はデカイ。洗濯したでっかいワイシャツがゆらゆら揺れる。そのアルジのボクは洗濯を終えて水をゴクリと飲む。カチリと前歯に器を当ててみる。磁器の冷たさがキーンとした遥かな響きとして体を貫く。またゴクリだ。気持ちいい。ゴクリ。 かつて柳田國男は「日人は木綿を用ゐぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせて居なかつた」と述べた。木綿の好ましさの第一は肌ざわり、柔らかさと摩擦の快さ。寧ろこれは絹よりもすぐれている。その第二に染色の佳さを柳田は挙げている。確かに染めの発色は絹には劣るだろうが木綿には染めの容易さ多様な縞

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    Emmaus 2021/07/21
    初めて買ったもの
  • うれしき瀬・からだのこと - Emmausブログ

    まえおき SNSやFBに「今」気づきたことを手短に書く、それも有効だと思う。しかし、そんな日常にあって絶え間なくどこからとなく僕に発せられた来た通知(notification)。「言葉には、今という『ファースト・ヒストリー』だけではなく『スロー・ストーリー』を見失うな!」というメッセージだった。それは行きつ戻りつの言葉、われわれに大切なものは何かという問いただしだった。 分かっていた。でも時間に感けてそれ(スロー・ストーリー)を見失っていた。3年と指折り数えて8ヶ月ぶりのブログ投稿です。過去に戻るのではなく(再開や回帰ではなく)新たな気持ちでブログを始めようと思って、はてなダイヤリーからはてなブログに移行しました。昔の記事は今読むと穴があったら入りたいくらいで消したいくらいですが、でも真っ新な自分などいるわけないから、以前の文章そのままです。自分が急変した訳ではないので今までと同じ雑文駄文

    うれしき瀬・からだのこと - Emmausブログ
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    Emmaus 2021/07/17
    シュンポシオンを思い出したよ。
  • たどり着いた静けさ - Emmausブログ

    世の中には、生きていく上での術(すべ)を熟知している人がいる。知るというより、むしろ術(すべ)を身につけたというように思われる人である。 ある時、人生の大先輩の方とお茶をご一緒する機会があった。大正生まれであった。特別なお話を聞いたのでも、上質なお茶を飲んだのでもなかった。醸し出される爽やかな風のような雰囲気。右手が大変ご不自由だった。左手の節くれだった大きな手。その手で茶碗を摩りつつ、「あったかいね」と言われ、動く左の人差し指で宙をなぞり文字を書く仕草が印象的だった。 それが何かの作法で身に備わったようでもあり、節くれだった手は世間という荒波でご苦労されたものと思われた。日常のなかで徐々にそのやり方が習慣となり、生き方としてその手の動かし方にたどり着いたのではないかと思われるほど自然なふるまいであった。 その所作たるものが、わたしには生きていく上での術(すべ)のようにふしぎに映った。それ

    たどり着いた静けさ - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2021/07/15
    その所作たるものが、わたしには生きていく上での術(すべ)のようにふしぎに映った。
  • 思い出ということ - Emmausブログ

    読むという行為は、受容と傾聴と共感という<聞く>という行為に尽きる。ケアの場合において特にそうだ。 ところで、昔話や<思い出>という言葉が若い頃わたしは好きでなかった。わたしがセンチメンタルだったから。反対にわたしが強がっていたからだ。 ことしの夏のことだった。ある患者のAさんが、ぽつりと急に「摩周湖がきれいだった」という昔話をしてくれた。「今はどうだろうね」と訊くと、「もう行けんもん」と言われた。はっとして二の句を継げぬまま、「でも良い<思い出>があるんだね」とわたしの口から出てしまった。われながら驚いたが、自分からつい言った言葉なのにその〈思い出〉という言葉がとても腑に落ちた。でも恥ずかしかった。 確かに、生きることは良い<思い出>をつくることで、決して感傷的なことではない。自立とは自分の思いを出して自分の命を自分が支えるものだ。その思い出を話として私が聞きわたしの心に遺すのだ、<思い

    思い出ということ - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2021/07/10
    前を向いて、思い出とともに、生きる。
  • あなたはあなた、それでいい。 - Emmausブログ

    The important book 世にある児童書。子供向けなのにその実、大人に受けているという類の。「だがなぁ 何ともビミョウだな」とボクは思う。どこかで大人が失ってしまったものってある。子供の時の郷愁、それってただ今の大人の慰みのような気がする。それはそれでいいのかも知れない。でもその児童書って、実際子供にとってはどうなのか。汚れ(けがれ)のないウツクシイお話し。心温まる物語。それもいいのだけれど。でもそのを手に持ちながら、片方では子供はテレビのリモコンのボタンを押すのに余念がない。それはそれで子どもにとってはワクワクすることなのだ。それはそれで好しとしなければいけない。私たち大人の郷愁を子供におしつけては・・・よくない。 Margaret Wise Brownが書く子供のための。私は好きだ。読者対象が4歳から8歳だ。タイトルは「The important book」。冒頭から

    あなたはあなた、それでいい。 - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2021/06/26
    児童書を大人が好きになる時。
  • ハルさんが遺したもの - Emmausブログ

    emmaus.hatenablog.jp ハルさんが遠くに旅だって二年。よくハルさんのことを思い出す。目が不自由で寝たっきりだったが、いつも変わらぬハルさんの和やかさ。ハルさんは多くを語らない方だった。何を話したとか何を伝えたということより、表すことのできない、大きな素晴らしさを遺して行ってしまった。 何か大きなもの受け入れた人は、自分にではなく、人に対して何か大きなものを遺すものだと感じてならない。 そうであるならば、それは自分のことに拘らない自分をこえたもの。測れる言葉ではない、目には映らない大きさであるにちがいない。 伝えること、述べることと 測る事の出来ない大きさ静けさを遺されたのだ。 ここで終わりではなく、ここからも続くハルさんとの応答。

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    Emmaus 2021/06/17
  • カレーという名がつけば何でもござれ - Emmausブログ

    根っからのカレー好きである。カレーという名がつけば何でもござれ。菓子パンから立ちいそばのカレー南蛮まで。マハラジャ気分のインドパキスタンの専門料理もいい。でも飽きのこないのはやはり、家庭料理。 元来、べるより作るのが好き。 emmaus.hatenablog.jp 近年、自分よりも、先方からおいしかったという感想をいただくのが嬉しい。 若い友人達の運営する受験塾にケータリングしたのも楽しいいい思い出でよかった。みんな楽しく汗をかきながら鍋の底がみえるまでべてくれた。ともだちのお子さんからのアンコールリクエストでなんどか作ったこともあった。 と言う訳で、 友人からオーダーがきた。カレー材が底を突いたのでアメ横「大津屋」に香辛料を買い出しに行ってきた。 カレーでみんながスマイルになればさいわいである。

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    Emmaus 2021/06/12
    カレーなんでもござれ。
  • マルツィン・アフデェーイチの話・愛あるところに神あり - Emmausブログ

    はじめに トルストイはキリスト教信仰の教えを背景にこの物語を書いたのですが、しかし特定の宗教の枠にとらわれず、多くの人に対して心のことについて愛について分かりやすく書かれている物語です。私たちのたいせつなことはどこにあるのか。これが「愛あるところに神あり」*1の主題です。 彼は古今東西の聖賢の言葉に精通していて、孔子の論語の「仁遠からんや、我、仁を慾すれば、ここに仁至る」ということを知っていたようです*2。仁とは思いやりであり慈しみです。神も仁も外にあるのではなく、誰にも自分の心の内にあるとトルストは生きる希望を見出しています。 この物語 -主人公マルツィン・アフデェーイチの話- はトルストイのオリジナルではありません。ロシアの国民伝説の焼き直しでもなく、フランスの原作ルーベン・サイアンからの翻案であるとされています。 はじまり 行き交う人のしか見えない往来に面した窓。その窓一つきりしか

    マルツィン・アフデェーイチの話・愛あるところに神あり - Emmausブログ
    Emmaus
    Emmaus 2021/04/03
    愛あるところに神あり
  • チック・コリアが逝ってしまった - emmaus.hatenablog.jp

    Emmaus
    Emmaus 2021/02/12
    わたしの支えの、チック・コリア
  • 100年目の風景 - Emmausブログ

    ▪️ハルさんのこと この世の支配者は「時」であって、(きみが)王であれ奴隷であれ、時がきみの命を吹き消すとき、あらゆる苦しみと喜びは夢のように、あるいは水のように消えてゆく。だから、王であれ奴隷であれ、良い思い出を遺す人こそ幸福なのだ。-フェルドゥーシィー 寝たっきりで眼の不自由なハルさんが僕が働くホーム(特養)にきたのは一年前。 一日の始まりは朝の挨拶。ハルさんおはよう、気分はどう? いいよ、上々。どうしてそういつも言い切るのか。この前もちょっとしたことで大腿部の骨折をしたというのに、なぜそう言えるのか。 カーテンを開けると青空。朝日が注ぐ。天気が良くてねと言うと、有難いとハルさんは答える。その言葉に空の青さが深まる。 日々の眺め、経験や記憶も其のなかにある。記憶はつくられ続けるものだから、僕らの一人一人にとって歴史は風景そのものというのなら、それを作り上げたのも僕らにほかならない。 ハ

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    Emmaus 2020/12/15
    眺めのいいところから
  • 白い退屈 - Emmausブログ

    小人閑居して不善をなす 差し当たりやることがない。でも時間がある。以前ならジョギング。しかし、今の体ではそれはできない。所在なく時間を埋める。またこれも有だ、今日の三じのお茶はお団子にしようかと思ってみた。 退屈のおそれ ぼくは子供の頃はのんびり屋だった。社会に出て仕事について次第にいつしか集中し緊張しなければならない症候群?に習慣的になっていき、遂には、無駄な時間=閑は不善と思うようになり、仕事であれ遊びであれ何ごとも、時間の空きや退屈がある種の恐怖の対象とする時間の過ごし方を長く送ってきたわけだった。退屈は色にすれば黒だと忌み嫌っていた。日人にはよくあるタイプだそうだが、当時はそれなりに充実していたとさえ考えて、さらに何かを 「手に入れる 」ために躍起になって生きていたのが実際だった。 睡眠障害 四年前睡眠障害であることが分かった。突然襲われる眠気。椅子から転倒するということが日常に

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    Emmaus 2020/12/10
    小人閑居して不善をなす。
  • 冬の旬の小松菜サラダ - Emmausブログ

    遠くにある鈍い光りより、身近な旬のキラリとしたものに気持ちがむく。 軸が柔らかく緑が際立つ瑞々しい小松菜を見つけた。 冬の旬の野菜サラダを作ろう。 先ずは下準備。 深さのある瓶に水をいれ、一枚一枚軸から剥がした小松菜をしばらく活けて置く。束の緑。葉っぱが勢いよくピンとしてきたらとり出し、大きな器に水を張り葉ごと浸す。水をきり、布にやさしく包ませ水気をしっかりとる。 葉と軸を切り分ける。長い軸なら適当に切り葉は手で程よい大きさに千切る。切るより捥ぐ感じ。 さて次は味付け。 お酢、オイル、粗塩の順に、小松菜に触れすぎないように手で手際良く丁寧に和える。 出来上がり。 添えるように器に盛り付ける。 小松菜の素材の旨味がすんなりと気持ちに刻まれる。光りを感じる瞬間である。 もう大丈夫。やっと辿りついた。

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    Emmaus 2020/12/10
  • 思いがけない贈り物のような美しさの話 - Emmausブログ

    時は流れ、あるものは滅び、またあるものは剥がれ崩れ落ちる。ものは朽ちるが、刻まれた名は残る。 わたしの祖父は、「美」という文字について、広大なところに羊たちが佇む風景を表していると、その意味深さを称したそうである。これは、父を経て母から聞いたはなしである。 実は、自分の名前がマサミということから、学校でよく「女の子だ」と揶揄われて、いつもはそれに耐えていたが、ある時堪らず家に帰るや母に八つ当たりをしたことがあった。今から考えると、ほんとうは自分こそが自分の名前の「美」に違和感や劣等意識が強くあったのかも知れない。 そのことが父のところに伝わり、命名の経緯を知る父から母が聞き、当の名付け親の祖父の話を母がわたしに話したのだった。 慎ましく大らかに静かに佇む羊。内容が内容だけに、突然の思いがけない贈り物に戸惑い、子供のわたしには良く理解できなかった。以来、歳を重ねる毎に、人に言うことはなかった

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    Emmaus 2020/10/25
  • でっかい優しさに会ってきた - Emmausブログ

    でっかくてゆたかなものに会ってきた。懐の深い優しさってこんなもの。河井寛次郎。「仕事仕事をしてゐます」。おおきいな。ぽかぽかあったまった。 僕の70歳のお祝いに小旅行に行ってきた。名所旧跡回りもせずにのんびりとしようて思ったが、せっかく京都まで来たのなら、河井寛次郎記念館には寄りたいと足を運んだ。 やっぱり、大きく、深く優しい。よかった。 それにしても、記念館の座敷に昼寝していた。気持ち良さそうだったな。

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    Emmaus 2019/12/01
  • 歩くことについての断章 - Emmausブログ

    5年前の歩きと走りを経て、最近walrunの歩くということが内と外からよく分かってきてまとまったのでメモっておきます。これからまた5年するとどうなることか。さあ前に進みます。 「歩き」っていい - Emmaus’ 走るときの時間の流れは具体的だ(SJC編) - 勇気と想像力、そして少々のお金 進化と動きの束ね 人は歩くために進化したと言われている。ならば、われわれが歩くことをやめたらどうなるのか。 からだはそれぞれつながっている。からだの動きは相互に連係している。まずは片足で立つ。どれくらいの時間持つか。つぎに二足で直立に立って一歩踏み出してみる。言葉ではない、実際にやってみる。まさに、足を中心としたからだの動きの束ね。日常の何気無い所作。前方に自分を押し出す。立ち現れるからだの肌理。 回想と回帰 歩くということは、具体的な目的を超えて、身体の動きの束ねを通しての、言うならば人類進化への回

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    Emmaus
    Emmaus 2019/11/18
    歩きについて
  • えんどう豆のさやを剥きながら - Emmausブログ

    梅雨にしては晴れ間が続いている。友人らと音楽の話しをしていた。どういう話の流れだっただろうか、「人生の最後に聴きたい曲は何か」という話題に行き着いた。人生の最後という言葉が日常を超えたフレームとして際立っていたが、居合わせたものはそれぞれの思いで自由に話をしていた。それはそれでなるほどだと感心しながらそれらの話をぼくも聞いていた。 さて、ぼくにおはちが回ってきた。ものごとには確かに始めがあれば終わりはあるのだが、ちかごろのぼくはとりたてて末期を意識することもなく、ごくふつうに楽観も悲観もなく<今のこの時が最後>と思うようになってきている。これはやはり、患いついた為だろう。だから、今の時をあえて度返しにして「人生の最後に聴きたい曲」といっても、今聴きたい曲が謂わば最後に聴きたい曲だということになる。 たとえていうと、死ぬ前に最後にべたいものはと聞かれても、今べたいものがそれに他ならないと

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    Emmaus
    Emmaus 2019/06/19
    えんどう豆が最後に食べたいものだとしてもOK
  • 戦わないという戦い - emmaus.hatenablog.jp

    健康で病気もしないなら、からだのしくみなどは考えずに過ごしていたと思う。 平和で穏やかな日々を支えていたものが、実はからだの免疫細胞の絶え間ない戦いがあったからだという思いにはなかなか至らない。 がしかし、ぼくらの意志や志向に関わらず、からだの中では病癖につながる遺伝子異常やからだの中に侵入してきたウィルスや細菌などの危険な異物に対して免疫システムというからだのネットワークの強い恵沢にぼくらは今もいつもつねに浴しているわけである。 そういう訳で、お人好しのぼくの体に発症したがん細胞を限局まで抑えていたのは、怯まないからだの細胞たちのおかげだった。 IMRT (強度変調放射線治療)という放射線治療は終了し確かなものだったし、それに伴う薬物療法も現在進行形だが、やはりからだそのもにある細胞の強い治癒力の果たす働きは大きかった。 生き延びた平凡とは現代医療と生命を保持する免疫細胞群の非凡な果敢な

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    Emmaus
    Emmaus 2018/12/10
    がんと戦う意味。生きる質と日常動作