はてなブックマーク https://b.hatena.ne.jp/ 記事が並んでいる。 サムネイル画像にマウスカーソルを乗せる。 すると、「すべてのブックマークを見る」という表示がぴょこっと出てくる。 カーソルの右下くらいに出てくる。 これを、サムネイルに人の顔があれば、目のところにピッタリ合うように表示させるのだ。 ARuFaみたいになったら成功。 たのしい。 わけねえだろボケが。
人間の生き方には4種類ある*1。 物語的自己:なんでも物語にしてしまう。「動機は?」「意味は?」「つながりは?」 ゲーム的自己:なんでもゲームにしてしまう。「どっちが強い?」「いま効率的?」 おもちゃ的自己:なんでもおもちゃにしてしまう。「どんな反応する?」「どう遊ぼう?」 ギャンブル的自己:なんでもギャンブルにしてしまう。「どこまで賭けられる?」「何が起こる?」 §1 これまで哲学、特に倫理学では物語的自己(narrative self)の議論がなされてきた。その研究は分厚く、門外漢の私には触れ得ないほどにあるが、傍で見ているだけでも価値のある研究がなされ、物語的自己の分析が進んでいるように思われる。 しかし、物語的に自己を組み立て世界を理解している人は世の中にそんなにいない。なのに、物語的自己がここまで深く倫理学的に考察されているのはなぜか。それは、物語的自己の人とは、主に倫理学に関心
バーチャルYouTuberを視聴するとき、私がまなざす対象の一つは、そのアバターである。アバターが動いている。もう一つ、私が耳を向ける対象は声である。動画内の、あるいは歌声の。あるいはさらにしばしばバーチャルYouTuberはゲームプレイをしているので、ゲーム中のプレイアブルキャラクタたちもまた私の目を捉える。あるいは、配信を離れて、XやInstagramといったSNSのテキストを読む。 アバター、歌/声、プレイヤブルキャラクタ、テキスト。これら様々な現れと関わることで、私はバーチャルYouTuberを鑑賞していることになる。これらの現れを、私は「ペルソナ」と呼ぶ。 だが、私は、その先について何かを感じている。つまり、アバター、歌/声、プレイアブルキャラクタ、テキストの先にある何かに対して関心を向ける。その関心の先にある対象。 もちろん、バーチャルYouTuberを鑑賞しているとき、その先
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