外山恒一に関するEvocacionのブックマーク (18)

  • 政見放送で「政府転覆」主張 元祖・異色候補が見る乱立の東京都知事選

    史上最多の56人が立候補した東京都知事選(7月7日投開票)では、計約11時間にも及ぶとされる政見放送での各候補者の主張も注目されている。そこで思い出されるのが、平成19年の都知事選での、ある候補者の政見放送だ。画面越しに挑むような視線で「政府転覆」を呼びかけ、最後に中指を突き立てたスキンヘッドの男性。彼は、乱立する現在の〝異色候補〟の源流となったのではないか。そんな疑問を抱き、会いに行ってみた。 「一世一代だった」「民主主義に反対する立場から、選挙制度をむちゃくちゃにするために(都知事選立候補を)やりましたから。そういう意味では、ついにここまで来たといえる」 東京・高円寺のバーでカウンターに立つ外山恒一氏(53)は、こう語った。革命家を自称するだけに、温和さの中にも不敵な様子がにじむ。今月25日、外山氏が経営に関わるバーを訪れ、趣旨を説明すると、アポイントなしの取材にもかかわらず、快く応じ

    政見放送で「政府転覆」主張 元祖・異色候補が見る乱立の東京都知事選
  • 僕たちの「寺山修司展」粉砕全記録

    1993年11月3日早朝、われわれ日破壊党の戦士3名は、「過激派になろう」と題したビラの束を胸に抱いて、福岡市のはずれにある高校前へと進撃を開始した。1時間以上かけてようやく攻撃目標が視界に入る地点まで到達し、ビラまき闘争の妨害を図るであろう反革命教師どもとの熾烈な戦闘の予感に全身を緊張させながら歩みを早めた。 今日は生徒の姿が意外と少ないな、と思った次の瞬間、気がついた。 「今日は文化の日だ。学校は休みだ」 「マジ?」 「ちょっとカンベンしてよ」 とおたがいグチの応酬がはじまる。破壊党員はみな、いわゆる「プータロー」だ。曜日や日付の感覚がない。 われわれの意識が人民大衆のそれから乖離していたことを率直に自己批判したのち、われわれは同地区から速やかにに撤退した。 ぼくの住居でもある1DKの日破壊党部へ戻ってからもグチリ合いは続いた。 「なんか気がおさまらないなあ」 「どっか他にビラ配

  • 物語の共有

    ファシスト志願者は、歴史を勉強しなければなりません。 ファシズムの肝は、我々は仲間である、という確信にあります。 そしてこの、「仲間」である、ということは物語を共有しているということです。 世の中には、たくさんの現象があります。 そこには、実際には、意味なんかありません。 単に、無数の出来事が、現れたり消えたりしているにすぎません。 となると、諸個人の人生にも、意味などないということになります。 起きて、って、排泄して、生殖活動をおこない、寝る。 個々の人間は、生まれると、そうしたことを繰り返しながら老いていき、やがて死ぬという、ただそれだけです。 実際、人間以外の動物は、みなそのように生きて、死んでいきます。 このことをありのままに直視し、生きることに意味など求めないというのも、それはそれで一つの立派な哲学的立場としてあり得ます。 しかし、我々ファシストはこの立場に立ちません。 これは

  • 1冊も読まずに書いた三島由紀夫論

    2012年4月 イギリスの正統派ファシストらしきTroy Southgate氏の依頼で執筆 友人に英訳してもらい、「Mishima Yukio and 1968」として Southgate氏が編纂した『Mishima: Thoughts & Perspectives』に掲載 一九六〇年代末、世界中で若者たちの反乱が起きた。西側先進国ではそれは主に新左翼と呼ばれる学生たちに担われた。もちろん日も例外ではない。「全共闘」と呼ばれた新形態の闘争組織に参加する学生たちが、さまざまの要求を掲げて全国各地の大学をバリケード封鎖した。 三島由紀夫は東大全共闘の新左翼学生に招かれ、彼らと長時間の討論をおこなっている。一九六九年五月十三日のことである。 三島は、古典主義的な「美」を追求するロマン主義の作家であり、日文化の「防衛」を訴えて、世間からは当然、右翼と目されていたが、同時に当時の新左翼学生たちの

  • #04「革命こそが総合芸術だ」──人民の敵・外山恒一は「集団」を創造する

    学術運動家・逆卷しとねが毎回異なるゲストと共に、オリジナルなクリエイターという“古いフィクション”を乗り越え、「動く巨人」と共に行う制作という“新しいフィクション”の可能性を考察する対話篇。三人目のゲストは政治活動家にして、2021年2月末に初個展を控えている革命的“芸術”家・外山恒一。 <<#01 序論「巨人と/をつくる──涯てしない“わたしたち”の物語」 <<#02 不純なれ、異種混淆の怪物よ──大小島真木は《あいだ》をドローする <<#03 革命はこの〈せせこましい身体〉から始まる──長谷川愛と「あいみょん革命」の20XX <<#05 BUMMING AROUND UNIDENTIFIED LANDSCAPES──宮川敬一はどこの馬の骨かわからない「風景」を放浪する INTRODUCTION ──「鍋と謀りごと」 2020年9月東京。革命家・長谷川愛さんとの対談中、僕が愛さんの肩書は

    #04「革命こそが総合芸術だ」──人民の敵・外山恒一は「集団」を創造する
  • トリスタン・ツァラの生まれ変わりとして

    08年12月執筆 九州ファシスト党員・山桜子が関係するトリスタン・ツァラの研究誌のために執筆したが、掲載に至ったかどうか失念 ある人に云わせれば、私こそはトリスタン・ツァラの「生まれ変わり」なのだそうだ。そう云われてみると、もしツァラを信奉する人があれば「不敬」きわまりないと思われようが、思いあたるフシがないでもない。 「教養のない教養主義者」を自認する私は、トリスタン・ツァラもしくはダダイズムについて、ごくわずかのことしか知らない。20代の終わりに塚原史の『言葉のアヴァンギャルド』を読み、以来時折読み返しているだけで、そこに書かれた以上のことは今もほとんど知らない。 もっとも私は、そこで紹介されているダダイズムの具体的な実践例に、あまり感銘を受けなかった。バカバカしい乱痴気騒ぎを「芸術」と称して正当化するのは、それを最初に始めた者にしかも短期間だけ許される特権であり、やがて惰性化してつ

  • ファシスト党〈我々団〉の基本政策

    現在は第4次世界大戦の戦時下にあり、「ファシスト党〈我々団〉」はその戦時下抵抗組織であると同時に、というよりそれ以上に、大戦終結までの良識派の避難所である。 詳しくはアントニオ・ネグリ&マイケル・ハートの『マルチチュード』、大澤真幸の『文明の内なる衝突』、笠井潔の『例外社会』その他、外山の『全共闘以後』第4章第8節などに譲るが、いわゆる冷戦が「起こらないままに起きている戦争、奇怪に宙づりにされた戦争、戦闘なき戦争として遂行された」(笠井『探偵小説論III』)第3次大戦であり、世界的には01年の9・11以後に全面化し、日国内的にはそれに先んじて95年のオウム事件を機に全面化した、いわゆる反テロ戦争が第4次大戦である。 反テロ戦争では、(没政治的な凶悪犯罪も含む)テロ防止を口実に、ひたすらのセキュリティ上昇が追求される、したがって軍よりも警察が主役となる戦争であり、とくに第1次・第2次大戦の

  • トップページ | 読書人WEB

    なぜ、を読むのか? Why do we need to read books なぜ、を読むのか?書『読書人カレッジ2022』の執筆者の一人である明石健五は、それを「考えるため」であると言います。 ある未知のものに出会ったとき、そこに驚きと感動が生まれる。そうして、初めて自分なりに思考することができ、それを人に伝えることができるようにもなる。 そういう過程を生きられる人のことを、「知性ある人」というのではないか。では、「知性」を自らのものにするためにはどうすればいいのか。繰り返しになりますが、「読み」「考え」「書く」ことを通してしか感得できないのではないか。 新しい出来事や局面に出会い、答えのない問題を考えることで鍛えられていくものが、確かにある。そういう問題は、すぐれたの中にいくつも見つけることができます。 繰り返し考えることによって、自分の思考を鍛えていく。それによって、今の世の

  • 「高校生らしい」集会

    七月十五日(日)、ぼくたちが第一回の高塚高校校門前ビラまきをする前日だが、この日、神戸では「門扉圧死事故を考える緊急トーク集会」なる集まりが、「神戸・子どもの健康と人権を考える会」のおばさんらの主催で開かれた。この集会で隅然出会った三人の現役男子高校生が、では自分たちも高校生を中心とした討論会を開こう、と意気投合して結成したのが、ハイスクール・コミュニケーション・ネットワーク、HCNである。 そのHCNの集会が夏休みの八月五日(日)に開かれるという情報を、ぼくはテレビのワイドショーで知って、何人かの知人に、一緒に行かないかと呼びかけた。 当日、会場へ行ってみると、高校生だけでも七十人くらい、大人を入れると百人くらいの人が狭い会場に集まっていた。マスコミ関係者もたくさん来ている。 人が死ぬと違うもんだな。ぼくは複雑な気分だった。 HCNの三人(司会者)のあいさつと、参加要請に応じた高塚高校生

  • 対談 西部邁vs外山恒一 60年安保の闘士vs90年安保の革命児 『週刊SPA!』1993年3月3日号に掲載

    西部 外山さんの自伝『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト)、読ませていただきました。読んでいて、とつおいつ思い出しながら、なんか、これは僕のような人だなあ(笑)と。押し売りする気はないんだけど、たとえば、あなたは思春期の頃から個人で生きてらした感じが歴然としてある。実は当は自分のこと言うのはいやなんだけど、齢に免じて勘弁してもらえば、僕は60年安保やったせいで世間から組織的に運動やったというふうにみなされている。しかし、それは僕個人の意識から言うとまったく個人行動だったという感じがあるんです。人から誘われて入ったわけでもないし、僕の場合、「俺、やりたい」と言って始めて、「俺、やめたい」と言ってパッと終わった。それっきり。そういう体質だったんですね。 もう一つは、紋切り型の表現だけども、偽善的というのかな、欺瞞的なものについては、やりきれない、体ごと抵抗せずんば止まないという感じがある。

  • 私と全共闘 - 外山恒一

    私には、自分が全共闘運動の唯一の継承者であるという自負がある。 そもそも私の世代に、全共闘運動をたえず参照しながら自らの進むべき道を探ってきたような人間は、狭い政治運動のシーンにさえ他にほとんど(せいぜい数人くらいしか)存在しないだろうし、しかも単に参照するにとどまらず、全共闘のさらに先へ進もうと志して、なおかつその具体的な方向性を提示しうるにまで至ったのはおそらく私一人だろう。 そんな確信を深めているところだったから、『悍』創刊号に掲載された千坂恭二「一九六八年の戦争と可能性」にある、「プレ・ファシズム性こそが、この運動(全共闘運動)の最大の思想的遺産でもある。つまりファシズムの自己肯定を経過しない思想は、この運動以降には到達出来ないということでもある」との記述は、ますます私を天狗にさせている。 全共闘を意識して以来10余年に及ぶ試行錯誤の末に、5年ほど前、私はファシズムへの「転向」を宣

    Evocacion
    Evocacion 2015/07/19
    「華青闘告発は全共闘運動の延長線上に必然的に起きるものなのか、それ以外の方向へ展開する可能性はなかったのか、というのが全共闘について考える時に私にとって一番重要なテーマになるんだなと見定めた。」
  • ファック・ザ・被差別部落民

    ゴーマンかましてよかですか? ぼくは「ホンモノのアウトサイダー」である。そういう前提に立って、この論は展開する。 先日、また朝まで「朝まで生テレビ」を見てしまった。テーマは、“部落問題”であり、同番組でこのテーマを扱うのは3回目ということだった。 ぼくはこれまで、部落問題に関連して、いくつかの論文を発表している。 「部落差別をなくす」ための運動は、大きく共産党=全国部落解放運動連絡会(全解連)と部落解放同盟(解同)の二つに分かれ、両者は激しく対立し、相互に罵倒し合っている。 この両者を比較すれば、全解連の言動はお話にならないくらい低レベルで、これについては『ハイスクール「不良品」宣言』収録の「『全国高校生部落問題研究集会』批判」で完全フンサイした。 解同の言動については、同じく『ハイスクール「不良品」宣言』収録の「『福岡県高等学校部落解放研究協議会(高部連)総会』批判」で疑問点を思いつくま

  • 外山恒一氏に集まる右翼から左翼まで 「政府転覆」を狙っているのか?

    12月22日の夜、東京・文京区民センター。100人ほどの聴衆を前に、スキンヘッドの外山氏が司会を務めるトークセッションが開かれていた。右翼も左翼も寄稿する論壇誌を不定期に発行している外山氏。壇上に並ぶのは寄稿した「国際共産主義者」から「極右思想家」まで様々な肩書がつく4人。外山氏は「ファシスト」だ。 外山氏が机にひじを着いてマイクを持ち「で、どういう社会を目指してるの?」と問いかける。と、眼鏡をかけた青年「極右活動家」が「明日の天皇誕生日をみんなこぞってお祝いする社会」と言い、黄色い柄シャツの「極左活動家」が「世界同時革命で資家をやっつける」と答える。外山氏は「進行、何も考えてないんだけど」「適当にだべっててよ」といなしながら、緩くセッションが進行していく。YouTubeの裏返った声で絶叫する姿を期待した人は、裏切られた気持ちになるかもしれない。

    外山恒一氏に集まる右翼から左翼まで 「政府転覆」を狙っているのか?
  • (2013参院選)勝ったのはだれだ 活動家・外山恒一さん

    紙面で読む外山恒一さん。「ツアー中、所持金が1円になってカンパを募ったら、アベシンゾウやジミントウの偽名で振り込まれました」=麻生健撮影  覚えてますか。2007年の東京都知事選。石原慎太郎氏3選が確実視されるシラけた空気の中、政見放送で「外山恒一にやけっぱちの一票を! じゃなきゃ投票なんか行くな! どうせ選挙じゃ何も変わらないんだよ!」と訴え、世間を驚かせ笑わせたあの人を。あれから6年。盛り上がらない参院選のさなか、彼は日を縦断… 続きを読む最新トップニュースこの記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。登録申し込みログインする(会員の方)無料会員登録はこちら朝日新聞デジタルのサービスご紹介はこちら関連記事映画「立候補」が映し出すもの6/25映画「立候補」が映し出すもの なぜ彼は負けても負けても選挙に出るのか6/25レコメンドシステムによる自動選択※有料記事の一部を自動で取り

  • 美術作品2つ (我々団(九州ファシスト党) 告知用ブログ)

  • ファシズムとはおおよそこんな思想である

    ファシズムは、極左思想経由の極右思想である。 現に、ファシズムの始祖・ムソリーニは、もともとイタリア社会党(当時はまだ共産党はない)の極左派であり、その周囲に集まった初期ファシスト党員の大半はアナキスト(と前衛芸術家)であった。 この程度のことは、常識としておさえておいてもらいたい。 ファシストは、認識において共産主義者(マルクス主義者)であり、行動において反共主義者である。 ファシストは、資主義がその危機の極点において、「必然的に」共産主義へと移行するという、マルクスの分析に全面的に賛成する。これはマルクス主義者が自慢するように「科学的真理」である。 しかし、水は確かに放っておけば百度で沸騰するが、我々には意志というものがある。我々は意志の力によって、火を止めたり水を追加したりするなどして、沸騰を阻止することができる。 ファシストは、共産主義を望まない。資主義は、放っておけ

    Evocacion
    Evocacion 2007/07/19
    脊髄反射する前に読んでみる。
  • 戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている ・ 外山恒一

    戦争が、始まっている。 この戦争を、ブッシュやラムズフェルドといった人たちは、「まったく新しい戦争」と呼んでいる。 「まったく新しい戦争」は、どこがどのように「まったく新しい」のか? 9・11直後、アメリカのアフガン攻撃の最中に書かれた『文明の内なる衝突』で、大澤真幸は次のように分析している。 (アメリカのテロリストへの、あるいはタリバンへの反撃は、そもそも戦争と呼べるのか否か、ということが盛んに議論されたが)戦争なのか、それとも戦争ではないのか、という見解が大きく分裂するのは、どうしてなのか? その理由ははっきりしている。この戦いにおいては、軍隊が警察として振る舞っているからである。普通、戦争とは、主権国家と主権国家の間の戦闘――外戦――である。だが、9・11テロが引き起こした「戦争」においては、当面の敵として措定されている主権国家らしきもの――タリバン政権――は偽装的なものであっ

    Evocacion
    Evocacion 2007/07/19
    これ読んで外山恒一に強く興味を持った。左翼に対する言及はもっともだ。
  • 政治活動入門・外山恒一

    政治活動とは何か 政治活動とは何でしょうか。 多くの人は、政治活動と聞いてまず選挙などを思い浮かべるでしょうが、もちろん政治活動と選挙運動とはイコールではありません。 選挙に関係すること(有権者の一人として投票することや、特定の政党や候補者への支援活動をする こと、あるいは自ら立候補することなど)も政治活動の一種ではありますが、実は政治活動の中でもかなり特殊なジャンル(?)にすぎません。 あるいは、政治活動とは、何かの主張や要求を掲げて署名を集めたり、集会を開いたり、街頭演説や、ビラまきや、デモなどをおこなうことだとイメージする人もいるでしょう。 しかしこの答えも、選挙運動しか思い浮かべられない人よりはいくらかマシですが、まだまだ正解とは云えません。 基的なことから考えてみましょう。 ほとんどすべての人は、生きていく上で、何らかの不満や苛立ち、怒りや焦りや、周囲への違和感といっ

    Evocacion
    Evocacion 2007/07/13
    芸術、学問と政治の違いについてのくだりが興味深い。我が身の生きにくさから動機は生まれる、というのはもっとも。だが、より多くの人間を我が身に関わりがあると思えるかでその人の度量も決まってくるような気も。
  • 1