【もう一つの京都】浮かび上がった「淀君の怨念」 豊臣家滅亡のプロローグ「方広寺鐘銘事件」のナゾに迫る (1/4ページ) 2008.12.23 12:37 時代は豊臣から徳川へ移ろうとしていた。 豊臣秀吉の死後の慶長5(1600)年、覇権をめぐって関ケ原の戦いが勃発する。戦国武将を二分した「天下分け目の戦い」。勝利を収めた徳川家康政権の始まりを確定づけた。 だが、豊臣家がこれで滅びたわけではない。追い込まれるのは、慶長19~20(1614~15)年の大坂冬の陣と夏の陣。結果、大阪城に火が放たれ、秀頼と母・淀君は自害。処分は子孫や関係者にもおよび、ついに豊臣家は終焉(しゅうえん)を迎える。 「豊臣を討て」 冬の陣の口実として使われたのは、方広寺(京都市東山区)の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という銘文だった。「『家』と『康』に名前を分断した表現を使って徳川家をのろい、豊