数年前までは一種のカルチャー用語であった「オタク」も、テレビや新聞など一般メディアが取り上げるようになって以来、普通名詞となりつつある。それだけ世の中にオタクが増えた、という見方はあまり正確ではなく、この場合は単にオタクと呼ぶべきスレッショルドが下がっただけ、と捉えるべきであろう。 オタクとい う言葉が発祥した80年代、この言葉の語感はもっと反社会的、ではないな、どちらかと言えば脱社会的な響きを持っていた。当時同じようなカルチャー用語に「ビョーキ」があったが、双方とも社会的不適合性という意味では、同じようなものであったろう。 だが「ビョーキ」のほうは、それほど長期に渡って使われなかった。そもそもこの言葉の基盤となった文化とは、YMOを中心としたテクノミュージックであり、それに派生するテキスト、美術、パロディであった。そしてその象徴の「散解」により、「ビョーキ」を構成していた層は徐々に解体さ
ここを読んだり、最近、非モテ語りを批判する人のエントリで見かける「恋愛しないとダメだなどという圧力は非モテの人が脳内で作っているだけ」「そもそもあんたたちが気にしてる「世間」なんてない」系の批判を見たりして考えたことを書こうと思う。えーまず前者を読んで考えたことは…男性のほうが女性より「パートナーがいなければ」という圧力を感じやすい状況があるのではないかということ。女性で「非モテ男性」に批判的な人で「自分もどっちかというと非モテ」(非モテの定義はここでは問わない)という人は、まずたいてい、自分は「モテようがモテなかろうがそんなことどうでもいいじゃないか」と思っている人だと思う(+男性中心社会や男性の価値観に批判的)。昔からそうだったのか、かつては「モテなきゃ」と思っていたけど今は悟ったのかはともかく。たまに見かける非モテ語りをしている女性も、基本的にはそのスタンス(どうでもいいじゃないか)
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