伊藤若冲も間違えた! 日本絵画のなかには、「怪物を描くつもりではなかったのに、図らずも怪物になってしまった」という面白いものがある。 以前、日経サイエンス2017年10月号で橋本麻里氏と対談した折に気づいたのだが、伊藤若冲が『池辺群虫図』(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)に描いたコガネムシにも似た動物が、その問題の「モンスター」である。 この「虫」には、昆虫の「前胸」に相当する部分がない。昆虫のいわゆる「胸」と言われる部分は通常、前胸、中胸、後胸の3つの分節からなっていて、そのうち、翅が生えていない一番前の分節を「前胸」というのだが、その部分がごっそり欠けているように見えるのだ。 そればかりか、膜翅(甲虫の後翅をこう呼ぶ)が2対もあるという、突然変異でも起こしたかのような形態を示している。 前胸ができるはずのところに中胸ができ、中胸ができるはずのところに後胸ができているいっぽう、本来の後胸は、その
前口上 シン・ゴジラは映像の快感に満ち満ちた作品であった。何度となく繰り返される政治家や官僚たちの会議、自衛隊による整然としたゴジラへの攻撃、ゴジラを襲う無人在来線爆弾と高層ビル、そして鳥肌が立つほど美しいゴジラの熱線放射。どれもこれも素晴らしかった。 本作を特異なものとしたのが、作品が社会現象として捉えられ、多くのシン・ゴジラ論が語られた点にあるだろう。教義の映画のレビューではなく、特集連載を掲載した日経ビジネスオンラインを典型として、「シン・ゴジラ論壇」は活況を呈した、あるいは呈するように仕向けられた。今しばらくこうした状況は続きそうな様子である。 おそらく2016年を振り返るとき、無視できない作品となったシン・ゴジラであるが、わたしは8月頭に一回目を見たときから耐え難い違和感があった。しかしながらそれを文章化することにはためらいがあった。わたしがためらいを感じたのは、違和感という名の
地の上にはこれと並ぶものなく、これは恐れのない者に造られた ――ヨブ記41.33 近代国家を聖書に出てくる大怪獣リヴァイアサンに喩えたのはホッブズであった。ホッブズによれば、人間の自然状態は万人の万人に対する闘争であり、そこに安息は無い。従って人間たちは自らの権利を国家へと委譲する契約を結び、国家の保護を得る。保護と服従の関係が、国家と国民の関係を規定する。国家はその領域において唯一の主権的共同体である。 カール・シュミットは、『政治的なものの概念』において、国際社会を複数のリヴァイアサンが競合する多元的な空間として考えている。国際間においては、国家の国民に対する保護は、他の国家からの保護でもある。むしろ国民は他の国民に対抗するために国家をつくる。国民の結集は、「政治的なもの」によって行われる。つまり、友と敵の存在論的な区別によって行われる。国家の主権者は、政治の概念に即して、国家の敵を正
シン・ゴジラのエキストラ撮影のときに説明されたんだけど、この作品は円谷英二が生まれなかった世界だという。54年の映画はもちろん、そこから派生する『キャラクタ化された巨大害獣』としての怪獣の概念自体が存在しない世界。そのため劇中では一度も怪獣という言葉が使われていない。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く