冷笑系「デモでは何も変わらない(キリッ」 香港のデモ→条例撤回 日本のデモ→受験制度改革延期 変わったじゃん世の中。 世の中何も変えられないのは、そうやってしたり顔してるキミら冷笑系さんでしょうよ。
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冷笑系「デモでは何も変わらない(キリッ」 香港のデモ→条例撤回 日本のデモ→受験制度改革延期 変わったじゃん世の中。 世の中何も変えられないのは、そうやってしたり顔してるキミら冷笑系さんでしょうよ。
神奈川県でのドキュメンタリー映画『主戦場』上映中止*1につづいて、三重県で表現の不自由をテーマにした作品が展示できなくなったという。 www.chunichi.co.jp 問題視されたのは、同市柏町のグラフィックデザイナー花井利彦さん(64)が制作したB2判のポスター「私は誰ですか」。黒を背景に、赤く塗られた手のひらと石を配し、左上には中国人従軍慰安婦像の写真をコラージュした。「私は誰ですか」と中国語、ハングル、英語、日本語で添えてある。「表現の不自由」をテーマにしたという。 伊勢市長の鈴木健一氏によれば「あいちトリエンナーレでは脅迫やテロ行為の予告もあった。われわれは市民の生命と財産、運営の安全性を第一優先に考えて判断した」という理由でとりやめさせたという。 つまり実際に脅迫がない段階で、公権力が表現を規制させたのだという。これで表現を弾圧したい側は、実際に脅迫をおこなうというリスクを負
三重県伊勢市で開催中の市美術展覧会で、慰安婦をイメージした写真を素材に使った作品の展示を市が認めなかったことが31日、分かった。市教育委員会は「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の騒動を理由に「市民の安全を損なう恐れがある」と説明している。 展示不可となったのは「私は誰ですか」と題したポスターで、黒の背景に赤く塗られた手が描かれ、左上に慰安婦をイメージした像の写真をコラージュした。制作した同市在住のグラフィックデザイナー花井利彦さん(64)は展覧会の運営委員を務める。 花井さんは「市による検閲行為で非常に残念」と話した。
明治大学平和教育登戸研究所資料館が今週水曜日から来年の3月30日まで、企画展「帝銀事件と登戸研究所」を開催しています。 今から70年前の1948(昭和23)年1月26日,日本の犯罪史上でも特筆すべき大量殺人事件である帝銀事件が起きました。12名もの人が毒殺されたこの事件で使用された毒薬は、特殊な青酸化合物であるとみなされ、その有力な候補が登戸研究所で開発された暗殺用毒物「青酸ニトリール」でした。 今年度の企画展では、捜査本部で捜査の指揮をとっていた警視庁捜査一課の係長が残した膨大な『甲斐捜査手記』(未公開文書)を読み解き、捜査が旧日本陸軍の毒物研究の実態にどこまで迫っていたのか、犯行毒物と登戸研究所との関係、毒物開発と人体実験、そして毒物をめぐって急転回をとげた捜査と裁判、事件とGHQの関係などを追及します。 私も観覧することができればいいなぁと思っておりますが、お近くの方はぜひ。
NHK BS1 2018年11月25日(日) 午後10時00分〜(110分) BS1スペシャル 隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院8002人の“病床日誌”〜 以前に地上波で放送されたものの拡大版のようです。放送後にこのエントリに感想など追記したいと思います。 追記:放送後僅かの間に3回も観直してしまいました。ご自身で「怒り」ということばを口にされた清水先生はもちろんのこと、番組全体から静かな怒りがじわじわと伝わってきた気がします。 厳密に尺を測ってみたわけではありませんが、地上波版と比べて増補されていたのは兵士の自殺とその研究、敗戦時に病床日誌が隠滅を逃れた顛末とその後、そして戦後の家族への影響、といったあたりでしょう。 とりわけ興味深かったのが“未復員兵”の父を持つ男性と、家庭で暴力をふるう復員兵を父に持つ女性の事例を通して語られる配偶者や子どもへの影響でした。間接的には孫世代にまで影
最近はやりのデマである下記の件。 「「徴用工」の賃金は共産党に流れていた(12/1(土) 7:31配信 デイリー新潮)」 金賛汀「朝鮮総連」の記載自体は未確認ですが、上記記事などで引用されている内容が正しいという前提で、それ以外の部分を指摘しておきます。 「強制労働者の未払い賃金」 「最大の財源になったのは帰還していく強制労働者の未払い賃金等であった。1946年末までに朝連中央労働部長名で強制連行者を雇用していた日本の各企業に未払い賃金の請求が出された。 その請求額は4366万円に達し、朝連はかなりの金額を企業から徴収し、それらのほとんどは強制連行者の手には渡らず朝連の活動資金に廻された」 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181201-00552666-shincho-kr 敗戦直後に朝鮮人連盟が日本企業から「強制労働者の未払い賃金」を徴
「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。 東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。 植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。 西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』201
台湾・台北で行われた、日本政府に台湾人慰安婦への謝罪を求める抗議集会(2018年8月14日撮影)。(c)AFP / SAM YEH〔AFPBB News〕 日本では「親日的」とみなされがちな国・台湾にまで設置された慰安婦像。もちろん日本としては看過できない問題だが、無分別な抗議活動は逆効果をもたらす。右翼系活動家の日本人が、あろうことか慰安婦像にキック。この一蹴りが台湾で大問題に発展し、与野党間の政争の材料にまでなる事態に陥っている。1人の日本人の蛮行は、一体なにを引き起こしたのか。ルポライターの安田峰俊氏が報告する。(JBpress) 与野党両党を巻き込む大きな国際問題に 今年(2018年)9月6日、日本の右派系市民団体「慰安婦の真実国民運動」の藤井実彦(ふじい・みつひこ)幹事(当時)が、台湾(中華民国)台南市内の中国国民党施設敷地内に設置されていた慰安婦像を蹴りつけるようなポーズを取っ
牟田口を貶める逸話 2018年7月、筆者は初の牟田口廉也の評伝である『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を刊行した。牟田口は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)下の1944年3月に始まったインパール作戦を計画実行した人物として知られる。 牟田口廉也。森千鶴氏提供。 インパール作戦は、わずか1ヶ月の期間内にビルマ(現ミャンマー)からいくつもの峻険な山々を踏破して、インド北東部の都市インパールに攻めこむというものであった。牟田口は、第十五軍司令官として作戦部隊と統括する立場にあった。その牟田口が立案した作戦計画は、後方からの補給を軽視したきわめて杜撰な計画だったことから、多くの日本軍将兵がインパールにたどり着く前に命を落とした。そのため、こんにち牟田口は、惨憺たる結果に終わったインパール作戦を指揮した「愚将」という不名誉なレッテルが貼られている。 しかし、インパール作
(阿利莫二『ルソン戦―死の谷』(岩波新書、1987年)) 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日本に生還できたのは約90名だった。本書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。本の雰囲気としては、尾川正二『「死の島」ニューギニア』(光人社NF文庫ほか)と、どことなく似ているように思えた。 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への
太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から本気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の多くの参謀たちが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施
(高崎伝『最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記』(光人社NF文庫、2007年)) 太平洋戦争の悲惨な戦場である、ガダルカナル島の戦いとインパール作戦の両方を経験した兵士による戦記。 著者の所属する第18師団(菊兵団)の歩兵第124連隊は、太平洋戦争開戦後、ボルネオ島、セブ島、ミンダナオ島攻略作戦に勝利し、その後ガダルカナル島の戦いに参加して壊滅。戦力再建後、新設の第31師団(烈兵団)に配属替えとなり、ビルマ戦線に投入。インパール作戦やその後の撤退戦を戦い抜き、ビルマ南部で終戦を迎えている。著者は、開戦から終戦までこの連隊に所属し、ガダルカナル戦とインパール作戦の双方を体験した人物である。 本書は、極めて陰惨な戦場を描写した戦記であるにもかかわらず、意外に読みやすい一書である。それは著者自身の個性と、その文才による部分が大きいのではないかと思う。気性の荒い北九州の部隊で、
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