ブックマーク / reskill.nikkei.com (4)

  • 「龍角散」復活 左遷された女性開発者が原動力に|出世ナビ|NIKKEI STYLE

    1998年の発売以来、医療・介護の現場から家庭まで幅広く利用されている、龍角散の服薬補助ゼリー。薬を飲みやすくするために開発されたゼリー状のオブラートで、世界35カ国1地域で特許も取得している。福居篤子執行役員が生みの親。一連の開発で多くの賞を受賞する一方、左遷も経験している。逆風にへこたれず、それを力に変えた彼女の実力を見込んで役員へ引き上げたのは、現社長の藤井隆太氏。服薬補助ゼリーシリーズ開発の軌跡を通じ、一時は倒産の危機に瀕した老舗企業を、2人のリーダーはどう蘇らせたのか。証言を基に振り返った(次回「『独裁』は悪いですか 龍角散を再生した音大卒社長」参照)。 ◇  ◇  ◇ 臨床薬剤師としての病院勤務が原点「製薬会社はどうしてこんな飲みにくい薬を作るのだろう?」。龍角散執行役員の福居篤子氏は臨床薬剤師として病院に勤務していた頃、よくそんなことを思っていたという。 薬が嫌だ、飲みたくな

    「龍角散」復活 左遷された女性開発者が原動力に|出世ナビ|NIKKEI STYLE
  • ビジネスSNS 起業の原点は京大時代の「0→1経験」 | NIKKEIリスキリング

    ビジネス向け交流サイト(SNS)を通じた人材仲介サービスを展開するウォンテッドリー(東京・港)。月間100万人、1万5千社が利用と急成長中だ。最高経営責任者(CEO)の仲暁子さんは、京都大学卒業後、投資銀行、漫画家修業を経て20歳代で起業した。「日版リンクトイン」を目指すという若手女性経営者の野望は実現できるのか。仲さんに話を聞いた。 ミスコンを企画して失敗、起業して空中分解の京大時代――なぜ起業をしようと考えたのですか。 起業は常に手段だと思っています。京大時代にミスコンを企画して失敗したり、学生4人でなんちゃって起業をして途中で空中分解しました(笑)。学生の時に起業にチャレンジした際は「起業すること」が目的になっていました。しかしその失敗で、今後の人生何があっても起業は手段にしよう、と心に決めました。 何かどうしてもやりたいことがあった時に、そのビークル(手段)として株式会社にすれば

    ビジネスSNS 起業の原点は京大時代の「0→1経験」 | NIKKEIリスキリング
    Mint0A0yama
    Mint0A0yama 2016/05/30
    “マンガ家も目指していました! かなり本気でした。ゴールドマン・サックス証券を辞めた後半年以上、家にこもって毎日朝から晩まで漫画を描いていました。アマゾンでも配布しています” そ、そうだったのか…
  • 森川氏が語る「LINE」誕生秘話 | NIKKEIリスキリング

    LINEの生みの親、森川亮・前LINE社長(現C Channel社長、49)が振り返る、自身のビジネスキャリア。後半は、MBAで自信を付けた森川氏が転職するところから始まる。そして、LINE誕生の秘話を自ら語った。 << 森川氏に聞く(上) MBAなしには、「LINE」は存在しなかった 自分を試したくて、約10年勤めた日テレを退職し、ソニーに転職した。最初は、テレビやオーディオを扱うカンパニーで新規事業の仕事を担当しました。事業計画を提案してはダメだしされる毎日で、ようやく一つ通ったと思ったら、社内事情で中止に。嫌気がさして、勝手に通信専門のカンパニーに移り、ブロードバンドで動画を配信するジョイントベンチャーの立ち上げに参加しました。人事は困っていましたが、後から異動を認めてもらいました。 おそらくこの時が、人生で一番働いたと思います。仕事は毎日、朝5時から夜中の2時まで。社内会議は夜11

    森川氏が語る「LINE」誕生秘話 | NIKKEIリスキリング
    Mint0A0yama
    Mint0A0yama 2016/05/06
    “いい会社というのは、ビジネススクールの授業のように、ダイバーシティというか、多様な考えをぶつけてディスカッションしながら、意思決定するプロセスを大切にする会社だと思っています”
  • ソニー"第三の創業者"驚きの素顔 | NIKKEIリスキリング

    世界のブランド、ソニー。3期ぶりに最終損益で黒字となり、復活が鮮明になってきました。井深大と盛田昭夫という傑出した2人の創業者の後を継いで、ソニーの黄金期を築いた元会長兼最高経営責任者(CEO)の大賀典雄氏。盛田氏の二男で前ソニー・ミュージックエンタテインメント会長の盛田昌夫氏が語った「ソニー『第3の男』大賀氏の素顔」のインタビューを再公開します。 それどころか、大賀さんの方は僕が母のおなかにいる時から知っていたようです。(東京芸術大学から)ドイツに留学するときに、両親が港に見送りに行きましてね。大賀さんがインドかなんかに着いたときに、電報で「昌夫が生まれた」と知らせたそうです。僕は50歳過ぎても「お前いくつになった」と聞かれていましたよ。いつまでたっても子供というか、息子みたいなもんだったんでしょうね。 ――大賀さんはどんな方だったのでしょう。今だから話せるエピソードを紹介してもらえませ

    ソニー"第三の創業者"驚きの素顔 | NIKKEIリスキリング
    Mint0A0yama
    Mint0A0yama 2016/05/06
    “大賀さんは午後9時半とか午後10時ぐらいに一度寝ちゃうんです。そして午前2時ぐらいに目が覚めると起きて勉強するんです。指揮の楽譜を覚えたり地図を見たり学習するんです。また午前4時ごろに寝るんです。”
  • 1