あの時、羽生は何を見ていたのだろう。何を思っていたのだろう。 一分将棋の死線の上で。 秒読みの焦燥、確信した勝利、敗北の恐怖、恍惚、不安。 何も分からない。分からない。誰にも分からない。 午後10時29分、134手目。劣勢の豊島は△8二銀を着手する。終盤のセオリーをかなぐり捨てる執念の受けだ。揺らめき、くぐもっていた控室の熱は突然、大きな声になって発露された。 一分後、羽生の右手の指先は8二の地点へと伸び、豊島の銀を奪い上げる。9三にいた竜を切る驚愕の手順で踏み込んでいったのだ。 「うわああああ」 一目見て危険すぎる一手の出現に、検討陣は再び歓声とも悲鳴ともつかない声を上げた。 継ぎ盤を囲む棋士、報道陣、関係者の多くは口元を緩ませている。もちろん嘲笑ではない。苦笑でもない。ゾクゾクする高揚を得た時に人が見せる笑みだった。 まだ羽生の駒台には飛、銀2枚、香、歩5枚が乗っている
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