左官の八は、裏を返して縫ひ直して、継(つぎ)の上に継を当てた絆纏(はんてん)を着て、千駄(せんだ)ヶ谷(や)の停車場脇(わき)の坂の下に、改札口からさす明(あかり)を浴びてぼんやり立つてゐた。午後八時頃でもあつたらう。 八が頭の中は混沌(こんとん)としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆(ほとん)ど全く麻痺(まひ)させてゐる。 八の頭の中では、空想が或る光景を画(ゑが)き出す。土間の隅(すみ)に大きな水船(みづぶね)があつて、綺麗(きれい)な水がなみなみと湛へてある。水道の口に嵌(は)めたゴム管から、水がちよろちよろとその中に落ちてゐる。水の上には小さい樽が二つ三つ浮いてゐる。水船のある所の上に棚が弔(つ)つてあつて、そこにコツプが伏せてある。そのコツプがはつきり目の前にあるやうに思はれるので、八はも少しで手をさし伸べて取らうとする処であつた。