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ブックマーク / www.city.karatsu.lg.jp (2)

  • (建築家)辰野金吾(たつのきんご)

    ヨーロッパ風日建築の開祖 金吾は、安政元年(1854年)唐津城下坊主町の姫松倉右衛門(ひめまつくらえもん)、母まつの次男として生まれました。五歳のころ、子どもがいなかった叔父の辰野宗安(たつのむねやす)の養子になりましたが、成人までは姫松家で育てられました。 母は優しいけれど、しつけに厳しい人でした。7歳になった金吾に母は日課として、家から200メートルほど離れた井戸からの水くみを命じました。家で毎日使う水がめを一杯にするためには5、6回往復しなければなりません。体が小さく、ひ弱な金吾にとっては重労働でとても辛いことでした。母は「このくらいの辛いことで弱音を吐くようでは先が思いやられます。どんなにきつくても辛抱して、言われたことを成し遂げるよう努力しなさい。」と言って水くみを続けさせました。水くみの仕事が終わると机の前に座り勉強に励みました。 15才になった金吾は、唐津藩の鉄砲隊に勤める

    (建築家)辰野金吾(たつのきんご)
    Nean
    Nean 2022/07/24
  • 増田敬太郎(ますだけいたろう)

    明治期、肥前町高串地区を襲ったコレラの防疫に懸命に尽くした唐津警察署の巡査です。 生い立ち 明治2年(1869年)8月10日に、当時の熊県泗水(しすい)村(現在の菊池市泗水町)の裕福な増田家の長男として、増田敬太郎さんは誕生しました。おおらかな性格の敬太郎さんは、誰からも好かれる人物で、永島塾で漢学を、後藤塾では数学や測量学を学び、数学の天才と言われていました。阿蘇郡馬見原(あそぐんまみはら)(現在の熊県山都町)の用水路工事や北海道開拓、泗水村での養蚕業など世のため人のためになることを次から次へと行う人物でした。 明治28年、日清戦争が始まった頃、熊県泗水村にいた敬太郎さんは、どうにかして世の中のためになる仕事がしたいと熱望し、偶然、佐賀県巡査(警察官)募集の広告が目にとまり、すぐに「私の進む道は、国のために働ける巡査しかない」と決心しました。 高串(たかくし)地区でのコレラとの闘い

    増田敬太郎(ますだけいたろう)
    Nean
    Nean 2022/07/24
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