ヨーロッパ風日本建築の開祖 金吾は、安政元年(1854年)唐津城下坊主町の姫松倉右衛門(ひめまつくらえもん)、母まつの次男として生まれました。五歳のころ、子どもがいなかった叔父の辰野宗安(たつのむねやす)の養子になりましたが、成人までは姫松家で育てられました。 母は優しいけれど、しつけに厳しい人でした。7歳になった金吾に母は日課として、家から200メートルほど離れた井戸からの水くみを命じました。家で毎日使う水がめを一杯にするためには5、6回往復しなければなりません。体が小さく、ひ弱な金吾にとっては重労働でとても辛いことでした。母は「このくらいの辛いことで弱音を吐くようでは先が思いやられます。どんなにきつくても辛抱して、言われたことを成し遂げるよう努力しなさい。」と言って水くみを続けさせました。水くみの仕事が終わると机の前に座り勉強に励みました。 15才になった金吾は、唐津藩の鉄砲隊に勤める