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ブックマーク / sokalian.hatenadiary.org (3)

  • 「算数と数学は違う」なんて誰が決めたのだ? - 吾輩は馬鹿である

    もう少し「掛け算の順序」問題を追ってみたい。なお、前後の流れをご存じない方は それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿である 「掛け算は非可換」論者は日版の「創造説」論者である - 吾輩は馬鹿である をご覧頂きたい。 今回の記事はその補足というかトラックバックへの応答になるが、その前に一つだけ確認しておきたい。題名にも挙げたが、そもそも「算数と数学は違う」などと誰が決めたのか、である。 勿論、大学で講義・研究されているような現代「数学」と「算数」が違うのはその通りだ。前者では定義・定理・証明という流れの中で堅固な論理体系を構築することが大前提だが、後者はそうではない*1。しかし、いくらなんでも「数学」で正しいことが「算数」で正しくないことはないはずだし、数学的正しさよりも「空気読み力」のようなものがそこでは優先される理由などどこにもないはずだ。 そんなことはない、と言いたい方には、

    「算数と数学は違う」なんて誰が決めたのだ? - 吾輩は馬鹿である
    Ohgyoku
    Ohgyoku 2010/12/30
    "正しいことを書いているのに×" "「権力によって正しいことをねじ曲げられる」という深刻な政治的葛藤" 正しいことを正しいと主張すること、理不尽に飼い馴らされないこと、それを教えるのが教育だろうにね。
  • 「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である - 吾輩は馬鹿である

    先日の記事それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるは怒りにまかせて喧嘩腰に書いたもので、内心を有り体に言えば「屁理屈を捏ねて子供をいじめる半可通ども、この印籠が目に入らぬか」というようなものだったのだが、思いのほかの好反響で驚いている。 だが、さらに憎まれ口を聞くことにしたい。理由であるが、 誰が何と言おうが、指導要領や教科書に書いてあれば全て正しい テストの○や×に四の五の言うな という態度が、片や科学技術で飯をうものとして、片や子供の頃教師の「善意」に苦しめられたものとして、絶対に許せないからだ。 スターリン体制をモデルにしたディストピア小説「1984年」の中で、作者ジョージ・オーウェルは主人公に 「自由とは、二足す二は四だと言える自由のことだ。これさえ認められれば、あとは全部ついてくる」 という台詞を言わせている。ところがその後、主人公は秘密警察に逮捕されることとなり、

    「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である - 吾輩は馬鹿である
  • それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿である

    このブログは、専門外の人間が外から密輸した理屈で、正しいことを正しいと主張することを禁止する風潮を批判するためのものである。そんな私にとってどうしても看過できないのが、今回の「掛け算の順序」騒動だ。詳細は以下を参照。 かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter 特に、応用数学を専門とし、中高の数学教諭の専修免許も持ち、さらに子供時代に遠山啓の数学に親しみ現在も遠山啓の著作集が棚に並んでいるというような私としては、まるで掛け算の順序を区別することが遠山啓の意にかなっているかのごとく喧伝される*1のは我慢がならない*2。 この件については、上記togetterで既に、学識豊かな方々が大抵の論点には触れてくださっているので、私は今まで余り触れられていない論点 「積は一般に非可換」という言説の妥当性 交換法則の証明は必要か 「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか 北海

    それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿である
    Ohgyoku
    Ohgyoku 2010/11/18
    自分は反×派(可換派?)だし該当コメントにもまるきり否定の立場だけど、むらちさんはそこは数学的見知を問題にしてないんじゃない? /エントリについては「釈迦に説法」を辞書で引かずとも黙る。勉強にはなったつもり。
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