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ブックマーク / note.com/samf (2)

  • 私の知っているビルゲイツ、その14|samf、古川 享

    ビルゲイツは人と話をするのがとても好きです。そのスタイルもビルゲイツが一方的に喋るようなスタイルではなく、相手の話を引き出し自分の意見を述べ、一緒に考え相手が見つけた解に何か自分が協力できることはないかと提案するそんなスタイルで誰とでも会話をします。 マイクロソフトの日法人ができた1986年から数年の間は年間に2回から3回ほどビルゲイツは日を訪問していました。パソコンを生産されている企業訪問や取材だけではなく、秋葉原に出かけたり、マイクロソフトの社員とあらゆる会議に出席したり、社員との懇親パーティにも参加したりして、それこそ社員の一人ひとりと会話を楽しんでいました。ある社員がビルゲイツに近づいて名前と所属部署を語ったときのことです。ビルゲイツ君は「そう、頑張ってね」なんてありきたりの対応はしません..その時はこんなパターンでした.. ビル:「今どんな仕事をしているだい?」 社員:「私は

    私の知っているビルゲイツ、その14|samf、古川 享
    PEEE
    PEEE 2025/05/10
  • 私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享

    ビルゲイツ、自分の限界を知りプログラムを書かなくなったわけ 1970年代の後半から1980年代の初頭においては、㈱アスキーがマイクロソフトの代理店として活動していた時代がありました。その頃は西和彦さんが次々と日の会社へのアプローチを実現し、多くの日人プログラマが日だけではなく、アメリカに長期滞在して日向けのBASIC言語その他の移植作業をしていました。1982年前後はIBMPCの出荷に併せて日のメーカーによるIBM互換機の投入に並行して、8ビット機としての終焉を飾るPC-88シリーズから、世界初のGUIべースのパソコンNEC PC-100, 日立のBAISCマスター、沖電気のif800、NCR9005、YE-Data、ALPSなどのハードウェアが次から次へとシアトルのマイクロソフト社に持ち込まれBASIC言語の移植に日夜、日人も関わりを持っていました。当時の開発環境はDEC社

    私の知っているビルゲイツ、その12|samf、古川 享
    PEEE
    PEEE 2023/06/14
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