最近は自分がリベラルでもなんでもないかもしれないと自覚する機会が増えた。ネットでニュースに接した時のもやっとした感じ、おぼろげな不快感によってそのように思うのだ。 なにが不快か。自分が正しいと思って声を上げている人間が不快。そういう人間の主張をあたかも「多様性」を認めることが正しいかのように、予断をもって報道するメディアの姿勢が不快。 そういうことを他人の面前で表明することはないものの、不快だと感じていることには変わりない。この他者、いなくなってくれないかな、という感覚。 まず女性の権利に関する主張。この手の報道に接するたびに、いつもクソどうでもいいと思う。じゃあ男性の権利はどうなんだと思う。 だれが権利をより多く持つのがよいかという問題について争う綱引きはすればいいと思う。つまり概念としての男女(これをジェンダーと呼ぶのか、どうでもよいが)が社会の中でどのように関係していくかという問題、
俺が言いたいのは、胎児の人権を大切にしろ!ってことではなく、むしろ逆なんすよ 「赤ん坊もぶち殺しまくっていいだろ なぜなら実質自我なんてないようなものだから」 ってことなんすよ だってそうじゃん 赤ん坊のころの自分に、まったく連続性感じねえよ あの辺って助走期間みたいなもので、つまりは胎内にいたときと大差ないじゃん でも、世の中ってよくわかんねーじゃん 3ヶ月の赤ん坊を藪に捨てて死なせたりしたら非難轟々じゃんわりと なぜなんだ 中絶するのと本質的に変わんなくねえか? 中絶禁止法にブチギレつつ、赤ん坊の命は大切にしたい人たち、どういう思考なんだ どこでどんな線引きしてんだよ 俺は、「物心ついている」と言えるくらいの賢さがある存在にしか人権を認めたくないという思想を持っているので、実際2歳児とかもぜんぜん「中絶」していいと思ってる ですから思想に一貫性があるんだ 中絶OK、赤ん坊が死んでもどう
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