男も女の性行為の経験の多い人間が、比較的、よく語るし、その語りには、性行為を見切ったような概観が含まれる。 だが、滑稽なのは、そうした概観ほど古典の世界で描かれ陳腐になっているものはない。少なくとも語られた性行為の経験の概括は、つまらないものにしかなりえない。そして残るのは、彼らの多数の性行為の実践だけになるが、そこにそれだけの生と身体をかける欲望の意味が、逆説として性行為の意味から遠ざけてしまう。 山本夏彦翁も言っていたが、たくさんの女の経験があるといっても、一人で千人分を薄めたのようなものでしかないという面もあるだろう。まあ、そのあたりの予感で、引き返すか、およそそういう世界と無縁になるべく定められた凡人が多い。 ふと思ったのだが。 これだけ人間種が性行為の可換性を持っているのは、遺伝子や進化という枠組みより、社会の臨界と内部のコミュニケーションの原型なのかもしれない。 団塊の世代の、