高校の国語の教科書には必ずと言っていいほど夏目漱石の「こころ」が載っていた。掲載箇所は、先生と呼ばれる人物が主人公に向けた書いた手紙の部分である。 これが非常に面白かった。程度の差こそあれ、明治の金持ち学生の気持ちが昭和の庶民的な高校生にも理解できたのだ。その後、一冊丸ごと読んでみたのだが、感想は内容うんぬん以前に「手紙、長っ!」であった。 果たして、あの手紙を実際に書いてみたらどんな分量になるんだろう。文庫本として読むのではなく肉筆で書かれた手紙として扱ったなら、一体どういうことになってしまうのか…。ずっと気になっていたので書いてみた。 挫折に次ぐ挫折で1年半もの歳月をかけた企画が、ついに完成したので、どうかご覧いただきたい。 (高瀬 克子) 設定からこだわりたい 文芸作品を書き写すにあたり、まずはどういう用紙を使用するべきかで頭を悩ませた。なるべく本に書かれた設定通りに再現してみたいで
2008年12月17日02:33 「二俣事件の真実 死んでも残るアホーだからだ」を『実録 この殺人はすごい!』に書きました ※2016年追記 <浜松事件>と<二俣事件>、そして山崎兵八刑事の生き様を描く本を、『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』というタイトルで出版しました。 詳しくはこちらの記事をご覧ください。 −−−−− 今日発売の『実録 この殺人はすごい!』(洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)という雑誌で、「二俣事件の真実 死んでも残るアホーだからだ」という記事を書きました。 二俣事件と云っても最近では知る人も少なくなり、また知っているつもりの方も古い時代の拷問冤罪事件だという程度の認識しかないのではないかと思います。 この事件も含めた終戦直後の冤罪に関する本は過去数多く出されておりますが、左翼的書き手が国家による権力犯罪を断罪するというスタンスのものがほとんどで、左翼
「リアは捨てて行く男である。リアの旅は、所有しているものを捨てて行く旅である。二年前にこの役を引き受け、戯曲を読んだ時、まず最初に突き刺さってきたのは、捨てる、ということだった。リアは財産を捨て、王冠を捨て、衣服を捨て、正気を捨て、血縁を捨て、世を捨て、丸裸になって行く。身軽になって行く。そして生命を捨てる」 山崎努氏の「俳優のノート」(メディアファクトリー)をまだ読み返している。 僕なんぞにはとても真似出来ない役の人物への深い洞察。そこには俳優として別の人間に成り切ろうという執念と共に、創造を越えての同じ人間への親愛が感じられる。 山崎氏にとってリアとは何か。また僕にとっても何者でありうるか。 「そして謎。人間には、どうしても理解出来ない謎の部分がある。無理なこじつけをしないこと。謎は謎なのである」 無理やりの理解ではなく、人間を感じること。 人間だけではない。現実も、偶然も、理不尽も。
人から借りて読み始めた。黒澤映画からテレビドラマ、さらには劇場でのシェイクスピア俳優としても有名な、山崎努氏の芸談である。芸談、というより日誌に近い。新国立劇場の柿落とし公演の一つとして準備された、鵜山仁演出『リア王』の準備と稽古と本番の記録である。 いつもの癖で、付箋を貼りながら読んでいったら、貼った付箋の総数が100枚以上になってしまった。2~3ページに一枚の割合である。演劇論としても面白いし、いかに俳優が熾烈な課題を己に課しているのか、いや、本物のプロフェッショナルはここまでやるのだ、ということが、無垢ながら流麗な文体で綴られている。すべての演出家と俳優に読んでもらいたい一冊。 山崎努氏というと、すさまじく長いキャリアを持った日本を代表する俳優の一人だから、言い方は悪いが保守的な人かと思っていた。しかし、いざ読んでみてその考えは一蹴される。なんて若々しく生命力に満ちた人だろう。敬服し
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