シンクロについて。 このような形に行き着くだろう。 ただニコマスという土壌、その土壌の中のシンクロという ある種の信仰はそれだけであることを許さない。 狭義の、定義的なシンクロの姿はただそれだけのものであるはずなのに、 そこに上乗せしたものまでをシンクロという言葉の内側に封じ込めている。 アイドルの一挙手一投足に、あるいは一瞬の表情の変化に、僕たちは心を打たれる。 そのために意識の裏側に回りこむ配置を 狡猾に構築していくメソッドもまたシンクロと呼ばれる。 つまりフィジカルに訴える気持ちよさと メンタルに訴える気持ちよさの両方に同じ名前が冠せられているのだ。 だからといってその状態が本来的ではない、ずれているものだ、なんてことは言わない。 一方に特化して一方を蔑ろにしてしまうと その特化してある方の輝きは決して視聴者に届かないからだ。 フィジカルなシンクロだけに特化した動画が空間の密度を埋め