ブックマーク / sunakago.hateblo.jp (2)

  • 梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について - 鳥籠ノ砂

    ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』は「語りうるものについては明晰に語りうるし、語りえぬものについては沈黙しなければならない」と述べている。これは思考可能なものと思考不可能なもの、というより表現可能な思考と表現不可能な思考の間に境界線を引いた上で、前者については明晰に語ると同時に後者については沈黙する営みである。そこで確認すべきは、言語を世界の像として捉えるウィトゲンシュタインの思考である。 ウィトゲンシュタインにとっての世界とは事実の総体であり、事実とは成立している事態のことである。これは、事態には成立しているものもあれば成立していないものもあるということだ。たとえば「彼女は駅前の喫茶店にいた」という事態は、成立している(=実際に駅前の喫茶店にいた)こともあれば成立していない(=実際は駅前の喫茶店にいなかった)こともある。このうち成立している事態、すなわち事実の総体が世界と

    梯子としての哲学 ――ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』について - 鳥籠ノ砂
    Utasinai
    Utasinai 2014/04/03
  • 議論しない哲学者 ――ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』感想 - 鳥籠ノ砂

    ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ最後の共著であり、その思想の総決算とも呼ぶべき『哲学とは何か』(1991)は、タイトルが示すとおり、「そもそも、ドゥルーズとガタリは哲学をどのように捉えていたのか」について教えてくれる。一言で言うとすれば、彼らにとって哲学とは「概念(コンセプト)を創造すること」らしい。《こうして結局、かの問は、すなわち哲学についての問は、そこで概念と創造が互いに関係しあう特異点なのである》(23p)。ここで当然疑問に思うのは、ではその概念とはどのようなものか、ということだ。彼らの説明を順に追っていこう。 ひとつの概念とは、それ自体が概念となりうるような不可分の合成要素群から構成された「集積点」のようなものである。それは物体や身体ではないし、論理学的な命題でもないとドゥルーズ+ガタリは言う。彼らが挙げているデカルトのコギト、すなわち「我思う、ゆえに我あり」の例を見てみよ

    議論しない哲学者 ――ドゥルーズ+ガタリ『哲学とは何か』感想 - 鳥籠ノ砂
    Utasinai
    Utasinai 2013/02/14
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